許してよ馬鹿 - 5
あの日からというもの、徹は毎朝決まった時間に私の自宅まで車で迎えに来て、会社まで送り届けてくれた。そして夜になると同じく決まった時間に会社まで私を迎えに来て、今度は自宅まで送り届けてくれる。残業の常習犯だった私が毎日のように定時で帰るようになったため周囲に驚かれはしたものの、怪我を言い訳にするとみんな納得したようだった。徹には会社の建物から見えにくい場所に車を停めるようお願いしたため、私が送迎をされていることを知る人はいなかった。
定時に帰れるのは嬉しい。しかし何よりも私は徹の顔を見れるのが嬉しかった。「おはようございます」「おう」というような挨拶や、「お疲れ様です」「早く乗れ」などのやり取りはするものの、道中の車内で私たちはほとんど言葉を交わさなかった。それでも私は6年間もずっと片想いをしていて、もう二度と会うことすらも出来ないと思っていた相手がすぐそばに居るという事実が嬉しくてたまらなかった。
これはあくまで一週間という期限付きだ。あと数日すれば私の脚は完治して、これですっぱりと徹を諦めることが出来る。徹のことを忘れて前に進むことが出来る。そう信じていた。いや、信じていたというよりも、そう信じたかった。
自分のデスクで仕事を片付けながら時計を見て時刻を確認する。定時まであと数時間ある。その数時間の間に今日のノルマを終わらせて徹に会う。それが毎日の目標であり、毎日のモチベーションになっていた。『会う』と言ってもただ送り迎えをしてもらっているだけでそれ以上の意味なんかない。私たちは昔とは違うし、昔のようには戻れないということも良く分かっていた。
上向きになったはずの気分が下向きになる。最近の私は情緒不安定にも程があると自分でも思っていた。フゥと大きく息を吐き、椅子に腰を下ろしたままその場で体を伸ばす。背中の辺りからパキパキという骨が鳴る音が聞こえ、ああ歳だなぁなんて独り言を呟きたくなった。少し休憩でもしようかなと思い、その場に立ち上がろうとした。その時だった。
「う」
捻挫した脚に強い痛みを感じて思わず唸るような声が出た。ここ最近は痛みが弱くなってきたため油断していたが、今は以前と同じ脈打つような痛みがある。家に帰って痛み止めを飲んで湿布を貼って安静にすれば大丈夫のはずだ。脚を引きずるようにしながら休憩室に行き、自販機でコーヒーを買う。
椅子に腰を下ろし、コーヒーを飲みながらふと思った。もしこの脚の完治が遅れればそのぶん徹は送迎を続けてくれるのだろうか。もし完治したとしてもまだ痛いからなんて嘘をついたら……。そこまで考えて頭を振る。私は何を考えているのか。そんな卑怯で愚かなことをしてまで徹のそばに居たいだなんて馬鹿げているし、徹本人にバレたら軽蔑されるに違いない。そもそも私はこの一週間が終わったら徹を諦めるつもりだった。未練がましく諦めの悪い自分に気が付き、吐き気を催すほどのひどい自己嫌悪に陥る。
「……ほんと、最っ低」
思わずこぼした独り言は自分に対しての罵倒だった。コーヒーを飲み干し、ゆっくりと立ち上がって休憩室を出る。今日はもう無心で仕事をしよう。そう思っても脚は変わらずに痛いままだし、頭から徹の顔が離れなかった。
定時になり、周囲の人間への挨拶もそこそこに私は会社を出た。徹が車を停めている場所に行こうと歩を進めるもいつものように上手くいかない。先ほど椅子から立ち上がった時に感じた痛みがまだ続いていた。ハァと大きな溜息を吐き出してから、脚を引きずって歩く。
「おい!」
前方から大きな声が聞こえてきて顔を上げる。声の主は徹で、こちらに小走りで近付いてくる姿が見えた。脚を引きずって歩いている私の姿を見て心配して来てくれたのだろう。徹の優しさを嬉しく思うが、この瞬間を会社の人たちに目撃されて色々と勘繰られるのが嫌だった私は周囲を見渡す。
「どうした?痛えのか?」
「いや、大丈夫です。帰って薬を飲めば……」
「いいから早く乗れ」
相変わらず徹は私の話を最後まで聞こうとせず、自分の声で私の声を消し潰す。徹は助手席のドアを開けると私の肩を支えるようにしながら車に乗せてくれた。反対側に回り込んで運転席に乗ると「出すぞ」と前置きをしてから車を発進させる。
やっぱり徹は優しいと思う。それは6年前から変わっていない。私は徹の優しさに触れる度に自己嫌悪に陥る。彼の優しさに付け入らなければ彼の傍に居られないという自分が情けなくて、気持ちが悪くて仕方がない。『この脚の完治が遅れれば……』。『まだ痛いのだと嘘をつけば……』。一瞬でもそんな風に考えてしまった自分が反吐が出る。
窓の外を見ることすらもせずにただ俯いて自分の足元だけを見ていると、車はあっという間に自宅マンションの前に到着した。シートベルトを外して車から降りようとすると、私よりも先に徹が車から降りる。いつもであればここで「ありがとうございました」なんて一言二言の挨拶を交わしてそのまま走り去ってしまうのに、何故徹がここで車を降りるのか分からず疑問に思った。
徹は私が乗る助手席側に回り込むと、ドアを開けて目の前に手を差し出した。意味が分からなかった私は出された大きな手のひらと徹の顔を交互に見る。徹は表情を歪ませた後にチッと大きく舌打ちをすると、私の腕を取って優しく引っ張った。
「掴まれっつってんだよ。なんで分かんねえんだ、馬鹿」
車から降りた私は徹の腕につかまり体重をかけてその場に立つ。煙草のにおいが鼻をかすめ、胸の奥が狭くなるような感覚がした。体を支えられながらゆっくりと歩いてエントランスまで行き、オートロックの鍵を開ける。ここまで来ればあとはエレベーターに乗るだけだ。もう大丈夫だと徹に伝えようと口を開いたその時、エレベーターの扉付近に見覚えのない張り紙があることに気が付いた。
「故障、中……!?」
張り紙に書かれた太く赤い文字を声に出して読み上げる。まさかこのタイミングでエレベーターが使えないなんてこんなことあるだろうか。私の部屋は305号室で3階にあるため普段であれば階段を使って家に帰る所だが、捻挫をしている上に強い痛みを抱えているこの脚で階段をのぼるのはあまりにも酷に思えた。
どうしようと考えていると、すぐ隣に居る徹が大きな溜息を吐き出した。これ以上彼に迷惑をかけるわけにはいかない。ここからは自分一人でどうにかするべきだと考えていると、いつの間にか隣にいたはずの徹が目の前に立ってこちらを見下ろしていた。
「え?」
気の抜けた声をこぼしたのと同時に、徹は私の背中と膝の裏に手を差し込み体を横抱きにした。宙に浮いたような感覚になり、驚きから大きく「うわ」と声を上げる。
「でけえ声出すな。通報でもされたらどうすんだ」
通報という単語に思わず自分の口を両手でおさえる。徹はそのままマンションの階段をのぼり始めた。背中と脚に触れている徹の手のひらの感触があまりにも生々しく、心臓がどんどん早く鳴る。
「ちょ、ちょっと、待って。ここまでしてもらわなくても大丈夫だから、お、降ろしてよ。階段くらい自分で……」
「これ以上悪化されたら俺が困るんだよ。黙っとけ」
徹の強い口調に言葉を飲み込んだ。『これ以上悪化されたら俺が困る』。確かにその通りだ。何も言えなくなった私はすぐ目の前にある太い首筋を見つめる。徹は私から部屋番号を聞くと、体を揺らさないようにするためかゆっくりと階段をのぼっていった。
触れられている背中も脚も、私の肩の辺りに触れている徹の胸も、何もかもが熱い。密着した体からうるさく鳴り続ける心臓の音が伝わってしまうような気がして怖かった。それなのにずっとこのままでいたいと思った。今のぼっている階段が永遠に続けば良いなどと、ありえないことすら考えてしまった。
3階に到着し部屋の前まで行くと、私は抱きかかえられたまま扉の鍵を開ける。中に入り、徹はゆっくりと私の体を玄関の床に下ろすと、よれたジャケットの襟に手を差し込んで正していた。座り込んだままその姿を見上げると当然のように目が合う。心臓はうるさいまま、呼吸は浅いまま、何を言えば良いのか分からずにただ徹だけを見つめた。徹も同じように何も言わなかった。
数秒間の沈黙。徹は何も言わないまま玄関のドアノブに手を掛けた。
「ま、待って!」
帰ろうとしている徹の姿を見て、思わずジャケットの裾を掴んで思い切り引っ張った。徹は気を抜いていたのか簡単にバランスを崩し「うお」と小さく声をあげる。徹の体は私の上へと覆いかぶさるように倒れ込み、下敷きにして押し潰さないようにという咄嗟の気遣いからか、私のすぐ横の床に手を付いた。
徹の顔が目の前にあって、私の全てに彼の影が落ちていた。徹は焦りからか息が上がっているようで、私自身も驚きと緊張から息が上がる。胸を掻きむしりたくなるほどに心臓がうるさく、頭がおかしくなりそうだった。
まとめ上げていた徹の前髪が一束、はらりと額に落ちるのが見えた。何の意図もなくそれに手を伸ばそうとした時、徹に腕を掴まれた。息を飲む。声は出ない。掴まれた腕はそのまま床に押さえつけられ視界が一気に暗くなった。
気が付けば私たちの口唇は重なっていた。何が起きているのかが分からなかった。ただ、6年ぶりの徹とのキスはあの日から何一つ変わっていなかった。私の髪を撫でる大きく固い手のひらも、不器用に動く柔らかな口唇も、「」と私の名を呼ぶ声も、何もかもがあの日のままだった。
ああこれは夢かな、なんてことをぼんやり考える。夢ならこのまま永遠にさめないで欲しいと思う。愚かな私にこの夢を永遠に見させて欲しいと思う。しかしそんなことは絶対にありえないと分かっていた。いつだって残酷な朝と残酷な現実は、私を跡形もなく打ちのめすに違いないんだと。