許してよ馬鹿 - 6

 初めて徹の家に泊まった時のことを夢に見た。徹の部屋は想像以上に綺麗に片付いていて、元々本人が綺麗好きなのか、それとも私が来るから綺麗にしておいてくれたのか、そのどちらなのかは分からなかった。

 初めて同じ布団で眠った時のことは今でもはっきりと覚えている。徹の家にある布団は小さくて二人で眠るには狭く、体が収まらなかった。掛け布団を引っ張ると徹の体が外に出てしまって「さみぃだろ引っ張んな」なんて文句を言われた。私が身を寄せると、徹はいつも優しく抱き締めてくれた。

 徹はいつだって優しかった。最中に何度も痛くないかどうか訊いてきたりして、ひたすらに私を大事に扱ってくれた。徹はまるで私のことを、少しでも力を込めたら押し潰れてしまう花か何かとでも思っていたのかもしれない。私だって徹と同じ人間なんだからちょっとぐらい痛くても平気だよ、なんて文句を言うと何処か困ったように笑っていた。

 私は花なんかじゃない。私のような女を花という可憐で美しいもの例えるなど不釣り合いにも程がある。徹に別れを告げられたあの日、彼は『他に好きな女が出来た』と言っていた。きっとそれこそ花のように綺麗な子なんだろう。痛くないように傷付けてしまわないように大切に扱って、その上で『大事にしてくれてありがとう』なんて笑顔で言える子なんだろう。私がそんな女であったのなら、徹は今でも私を好きでいてくれたんだろうか。

 ゆっくりと目を開く。カーテンの外はまだ暗いため夜中なのだろうと判断した。視界はぼやけており自分が泣いているということが分かる。昔の夢を見て涙してしまうなんてどうかしているな、と呑気にも考えながらベッドから体を起こし部屋を見渡した。徹の姿はどこにもなかった。

 昨夜は玄関で覆いかぶさられて、キスをされて、そのキスがどんどん深くなって、徹の手が私の体に伸びて来て、私も同じように徹に触れて、お互いに服を脱いで、あちこちに口唇が落ちて来て……。記憶が確かならばベッドに移動したのは玄関でそこそこの行為を済ませた後だ。もしかして昨日の出来事は本当に夢だったのだろうかとも思う。軋むように痛む背中は長い時間床に背を預けていたせいだろうが、本当に最後までしたかどうかは分からない。

 ベッドサイドに置かれていたゴミ箱に目をやる。よく見るとそこには『明らかなるそれらしきゴミ』が捨てられていて、ああ昨日のことは夢じゃなかったんだと確信した。記憶がはっきりとはしないが『それらしきゴミ』……、避妊具は私が持っていたものではない。ということはつまり徹が持っていたということだ。途中まで考えた所で頭が痛くなり考えることを止めた。

 ここに徹の姿がないということは出て行ってしまったのだろう。昨夜、帰ろうとしていた徹を引き留めたのは私だ。行為に及んだのも容認しているし徹に非はない。でもこんなのはまるで……、言葉を選ばずに言うならば『ヤリ逃げ』じゃないか。私の気持ちも聞かずにやることをやってさっさと帰ってしまうなんて酷すぎる。そう思うも、これが徹の『答え』なんだろう。私が目を覚ますまでここに居てくれなかったのは、私の気持ちを聞く気がないという意思表示に思えた。

 床に足を着くと痛みがほとんど消えていることに気付いた。もしかしたら一番の鎮痛剤は好きな人との性行為なのかもしれないと馬鹿げたことを考える。そもそも私が捻挫をしてからそれなりに時間が経っているため、きっと完治が近いのだろう。この脚が完治しようとしなかろうと、もう徹とは会えない気がした。慣れているはずの一人きりの部屋が今まで感じたことがないくらいに寂しく、肌寒く感じた。

 世界にどんなことが起きようとも、必ず日が昇り朝は来る。シャワーを浴びて支度をすると、出勤するため外へ出た。いつもであれば路肩にバンが停まっていて運転席から徹が顔を覗かせているが、当然ながら迎えはなかった。

 別に構わなかった。脚は昨日の痛みが嘘かのように元気だし、今まで通り歩いて出勤出来るだろう。タイムリミットの一週間がほんの少し早まっただけだ。問題ない。問題ないはずなのに涙が溢れた。鞄からティッシュを取り出し、メイクが崩れぬよう頬をおさえるようにしながら涙を吸い取る。こんな時にまで化粧を気にしてしまう自分を滑稽に思った。

 徹がここに来ることはもうない。私から会いにいけるわけもない。私の恋は6年も前にとっくに終わっていたんだ。これは未練がましくいつまでも想い出にしがみついていた愚かな私への罰なのだと思った。脚の痛みと共に徹への想いも消えてしまえば良いのにと強く感じた。

 余計なことを考えないようにととにかく仕事に集中していたせいか、この日の作業は全てがスムーズだった。余計なミスもしないし、後輩も優秀だし、上司に褒められるしで良いことばかりだった。気を抜くと徹のことを思い出しそうになって、その度に濃くて苦いコーヒーを胃に流し込み、目の前のモニターを見つめてひたすらにキーボードを叩いた。

 今日やらなくても良い仕事にまで手をつけていたせいか、気が付いた頃には22時をまわっていた。周囲の同僚たちは既に上がっていて、同じフロアで仕事をしている人は私ぐらいしか居ない。ここ最近はずっと定時上がりだったため久しぶりに残業をしたなと思い、椅子に座ったまま体を伸ばした。

 ふと、私を迎えに来て自宅まで送り届けてくれる徹はもう居ないんだと考えてしまい頭を振る。目の奥が熱くなってきたことに気付かないふりをしながら、帰り支度をして椅子から立ち上がった。

 会社の外に出ると真っ暗で、冷え切った夜の風に体が縮まるような感覚がする。早く帰ろうと駅の方向へ歩き出そうとした時、背後に人の気配を感じた。革靴が地面にぶつかり擦れるような音が耳につく。まさか、と思いながら振り返った。

ちゃん!お疲れ!いま帰り?」

 振り返った先に居たのは期待していた人物ではなく会社の先輩で、思わず大きな溜息をつきたくなってしまう。この先輩は以前から私にメッセージを寄越してきたり、頻繁に食事に行こうと誘ってくる人だ。同僚によると「絶対のこと狙ってる」とのことで、どうやら私に気があるらしかった。

 軽く頭を下げながら「お疲れ様です」と挨拶をする。早く帰りたかった私はそそくさとその場を立ち去ろうとしたが、先輩に進行方向へ回り込まれ思わず立ち止まった。

「ねぇ、ちょっと聞きたいんだけどさ……」

 先輩は優しい微笑みをこちらに向け問い掛けた。内心めんどくさいなと思いつつも彼が悪い人ではないということは分かっているし、いま目の前にある微笑みもとても穏やかだったため嫌悪は感じなかった。『なんでしょうか』という返答の意味を込めて軽く首を傾げる。

「オレさ、ちゃんがサングラスの男と一緒に居るのを何回か見かけたんだけど、もしかして送り迎えしてもらってんの?」

 心臓が口から出そうになる、というのはこのことを言うのだろう。先輩が言った『サングラスの男』というのは確実に徹のことだ。間違いない。しかも先輩は送迎のことまで把握している。何と答えれば良いか分からず、私はひたすらに口をもごもごと動かすことしか出来なかった。

「あのさ……、そのサングラスの男って、ちゃんの彼氏、だったりする?」

 二回目の攻撃に、今度こそ本当に心臓が口から出てしまうのではないかと思った。

「ち、違います違います!あの人は……、」

 体の前で大きく手を振るジェスチャーをしながら否定の言葉を繰り返して言う。『あの人は……』に続く言葉がひとつも思い浮かばなかった。『あの人は知り合いです』。『あの人は友人です』。『あの人は私の元恋人です』。どの言葉もしっくりこない。『あの人は6年前から今でもずっと忘れられない私の大好きな人です』。胸の奥にすとんと落ちた言葉は、声になって口から出て来ることはなかった。

「なぁんだ!彼氏じゃないんだ。うわー、良かった、オレ、安心しちゃった」

 先輩は大きく息をつきながら明るい声で言うと、さりげなく私の腕を掴んだ。まるで手を繋いで歩く恋人同士かのように横について一緒に歩き出す。先輩の手はそこまでの力ではないし、振り払おうと思えば簡単に振り払えそうな気がした。

ちゃん、今から一緒に飲みにいかない?この近くに良い店があるんだ」

 先ほどからずっと変わらない優しい微笑み。この人を好きになれたのなら私は徹のことを忘れられるのだろうか、未練を断ち切れるのだろうか、と考える。そんなことはありえないと分かっていた。6年間もずっと好きだった人のことを簡単に忘れられるわけない。

 軽く力を込めて手を振り払う。先輩は驚いたように目を丸くしてこちらを見ていた。

「ごめんなさい、私……」

 好きな人が居るんです、と心の中で呟きながら徹の姿を思い浮かべた。当時キャバ嬢だった私を悪質な客から守ってくれたことや、一緒にお酒を飲んだことも思い出す。風邪で寝込む私の看病をしながら『俺もさんが好きです』と言ってくれた時のこと。付き合い始めてしばらくしてからやっと私を『』と呼び捨ててくれた時のこと。初めてキスをした時のこと。同じ布団で眠った時のこと。そして『他に好きな女が出来た』と別れを告げられた時のこと。全てが昨日のことのように覚えている。

 私はやっぱり徹が好きだ。私のことなどもう好きじゃなくても、他に好きな人が居たとしても、それでも私は徹のことが今までもこれからも大好きで、この先一生忘れることなんか出来やしない。それだけが私の中にある確かなことだった。

 あっという間に視界がぼやけ、溢れた涙が頬を伝う。今朝のように化粧崩れなど気にしていられないくらいの量の涙が零れ出した。頬から顎へ伝ったそれはまるで雨のように地面へと落ちて行く。



 張りつめたような冷たい空気に低い声が響く。私の名を呼ぶその声は耳馴染みの良い聞き慣れたものだった。顔を上げて声の方向を見る。涙で滲み切った視界の真ん中にいま一番会いたいと思っていた愛しい人の姿があった。

 何故、いま、ここに徹が居るのか。疑問が浮かび、そしてそれは一瞬にして消えた。私にとって徹さえそばに居てくれるのなら、それ以外はもうどうでも良かった。