許してよ馬鹿 - 7

 名を呼ばれても返事など出来なかった。相手の名を呼び返すことすらも出来ず、ただ呼吸をすることしか出来ない。冷たい空気を吸い込んで白い息を吐き出す。徹は大股でこちらに近付き、迷いない様子で私の腕を掴んだ。踵を返し、来た方向へと歩き出した徹に引っ張られる形で私も同じように歩き出す。

ちゃん!?ちょ、ちょっと!何処に……」

 後ろから先輩の声がした。呼び止められた私よりも先に徹がその場に立ち止まり、先輩の居る方へと振り返る。徹に意識を奪われていた私はその時にやっと『すみません』や『失礼します』などの挨拶の言葉を先輩に伝えるべきだと気付いた。

「あ、先輩。あの……」

 そこまで言った所で声が出なくなった。何故なら背後に居た徹が大きな手のひらで私の口元を覆い塞いでいたからだ。思わず「むぐ」という間抜けな声がもれる。かろうじて息は出来るものの、声は上手く言葉にならない。

「悪い。こいつは、お前には渡せねえ」

 徹は先輩に向かって言うと、私の体を半ば引きずるようにしながらその場から連れ去った。先輩がどんな顔でこちらを見ていたのか私には分からなかった。

 連れて行かれた場所は会社近くにある何の変哲もないごく普通のコインパーキングで、そこにはいつものバンが停まっていた。徹は助手席のドアを開くと私の体を押し込み、半ば無理矢理に車に乗せる。この光景は第三者からしたら誘拐にしか見えないだろう。徹は助手席のドアを音を立てて思い切り閉めると、運転席側に回って車に乗り込んだ。

 静まり返った空気にドアを閉める音が反響する。徹はただ何も言わずこちらを見ようともしない。

「なんで、ここにいるの?」

 率直に問う。徹は口を固く結び黙り込んだままだった。そういえばシャルル前で徹を庇って怪我をしたあの日、自宅マンションまでの車内でも似たようなことがあったと思い出す。『相変わらず変わってねえな』と言った徹に『私のこと覚えてるの?』と訊ねた時も、同じように黙って何も答えなかった。

 都合が悪くなったり上手く取り繕えないと思った時は黙り込む。急に現れては優しくしたりして私の心を掻き乱したと思えば、今度は冷たく突き放して姿を見せなくなったりする。理解出来ない態度に段々と腹が立ってきた。

 何も言わなくなった私のことが気になったのか、徹はやっとこちらを見る。目が合ったが、今度は私からそれを逸らして窓の外を見た。

「なぁ、さっきのあいつ、なんなんだよ」

「は?」

 何故そんな質問をされなければならないのかという疑問から思わず間の抜けた声が出る。そもそも徹は『なんでここにいるの?』という質問に答えていない。徹が私の問いに無視を決め込むのなら私だって徹の問いになんか答えてたまるか。同じように口を固く結んで黙り込んだ。

「この間言ったよな、お前は危機感がなさすぎんだって。男舐めてんじゃねえぞ。大体ああいう無害そうな顔した野郎が一番やばかったりすんだよ」

 口を挟む暇もないほどの早口が耳に飛び込んでくる。徹はきっと先輩のことを言っているのだろう。何を勘違いしているのか知らないが先輩はそんな人じゃない。確かに強引な所もあるし、ちょっとめんどくさいと感じる部分もある。しかし彼は徹が思うような人ではない。

「それ、徹が言うんだ」

「あ?」

 説教じみたことを言い出した徹に意地悪をしてやりたいという気持ちになる。窓の外に向けていた顔を運転席側に向けると、少しだけ身を乗り出して睨むような目を徹に近付けた。

「徹なんか、昨日はやることやって私のこと置いてさっさと帰っちゃったくせに」

 徹は驚いたように身を退くと、ぎょっとした顔をして目を泳がせた。焦っているのか口を何度も開けたり閉じたりしている。私はさあどうだ言い返してみろという気持ちでフンと鼻を鳴らした。

「あ、あ、あれは……、全部!全部お前が悪ぃ!」

 予想していなかった言葉が飛んできて呆気に取られる。確かに帰ろうとしていた徹を呼び止めたのは私だし、行為に及んだのももちろん合意の上だったため自己責任と言われればそれまでだ。しかしまさか『全部お前が悪い』などと言われるとは予想しておらず、何も言い返せなくなる。

 徹は人差し指をこちらに差し出した。わなわなと震えているようにすら見える。

「お前が……、お前が可愛すぎんのが悪ぃんだよ!俺を誘惑しやがって!全部お前のせいだろうが!」

「はぁ!?何言ってんの!?誘惑なんかしてないでしょ!」

「したんだよ!」

「してないよ!」

「した!」

「してない!」

「した!」

「してない!」

 二人の大声が車内に響き渡る。目の前にある徹の顔が赤くなっていることに気が付きハッと息を飲んだ。徹は「クソ」と小さく呟くと車のハンドルに額を付け、まるで落ち込んでいるかのように顔を伏せた。

 つまりだ。あの時の徹は『私が可愛すぎた』から我慢できなくなって理性が吹っ飛んでしまい、事に及んでしまったのだと言いたいんだろう。『私が可愛すぎた』から。『私が誘惑した』から。頭の中で徹の言い分を整理しようとすると、自分の顔が熱くなってくるような気がした。

 ずっと想っていた相手に可愛いだとか誘惑しただとか、そんな風に言われて嬉しくないわけがない。それなのに同時に悲しくて仕方がなかった。その言葉は6年前に言われたかった、思われたかった。そうすれば私は今でも徹のそばに居られたかもしれない。徹の恋人で居られたかもしれないのに。

「いまさら、そんなこと言わないでよ」

 鼻の奥が痛くなり視界がぼやけてくる。私の声に反応した徹がこちらを見たようだったが、どんな表情をしているのかが分からなかった。目に溜まり行き場を失くした涙が流れ出していく。

「私のことふったのに。他に好きな女が出来たって、私よりも好きな女が出来たって、私のことふったのに。私はずっと徹のこと好きだったのに、好きなのに、6年前から、今でもずっと」

 言えずにいた本音が涙と共に落ちた。ああ言ってしまったと思ってももう何もかもが遅い。目から零れた涙も、口から零れた言葉も、元に戻ることは決してない。手の甲で涙を拭うと、その腕を何かが力強く掴んだ。徹の手だった。

「他に好きな女が出来たなんて、嘘に決まってんだろ」

 何を言われたのかが理解出来なかった。また昔の夢を見ているのだろうかと思ったが、私の腕を掴む徹の手が熱く、力がこもっているのか指先が肉に食い込んで痛い。目の前の光景も徹の言葉も夢ではなかった。

「お前には……、極道の俺なんかよりもっと良い相手が居るだろうって、思った。だから嘘をついたんだよ。それでもお前を忘れたことなんか一度もねえ。俺が惚れてんのは、昔も今もお前だけだ、

 徹の熱く太い指先が顎に触れ、優しい力で顔を持ち上げられた。顔が近付いて来て影が落ちる。あとほんの少しで口唇が触れ合うという所で、私は徹の胸の辺りを強く押して体を突き放した。

「馬鹿!」

 叫びながら徹の顔面目掛けて平手を振り下ろす。しかし私よりも徹の方が一枚上手だった。徹は素早く私の腕を掴み動きを止め、攻撃は不発に終わった。そこは大人しく受けておきなさいよと思うも上手く声が出ない。口から出てくるのはみっともない嗚咽だけで、涙が溢れて止まらなかった。

「テメ……!いきなり殴るこたぁねえだろうが!この暴力女!」

「うるさい、うるさい、自分勝手、最低、ひどいよ」

 思いつく限りの罵倒の言葉を口にしたが、まるで子供の悪口かのように間抜けな単語ばかり浮かんでしまう。私は徹の首に腕を回して強く抱き着いた。涙で濡れ切った顔で太い首筋に頬ずりをする。

「私には、徹以上の人なんかいないよ。だからもう、私から離れないで」

 自分の涙が徹の鎖骨辺りに落ちて行くのが見える。耳元で小さく「悪かった」という低い呟きが聞こえた。自分の背中に腕が回ったのが分かる。大きな手がそこを優しく撫で、あやすかのようにぽんぽんと軽く叩く。私の体を包み込む煙草と整髪料のにおいがあまりにも懐かしくて、私は大きく声を上げて泣いた。