許してくれよ馬鹿 - 5
あの日からというもの、俺はの送迎をするため神室町と異人町を行き来する生活を送った。九十九課の車はずっと借りっぱなしだったが杉浦や九十九から連絡などはなかったため、問題はないと判断した。
初めて会社に迎えに行った夜は21時を過ぎていたものの、はあの日以外は毎日18時には会社を出るようになった。俺が帰りの時間が遅いことを指摘したせいかもしれない。もしくはあまりに遅い時間になると俺に迷惑がかかるとでも考えているのだろうか。
俺たちは「おはようございます」「おう」というような挨拶や、「お疲れ様です」「早く乗れ」などのやり取りはするものの、道中の車内でほとんど言葉を交わさない。それでも俺はの顔が見れて、声が聞けて、同じ空間に居るというだけでこれでもかというほどに満たされた気持ちになっていた。
今日もいつも通りの会社まで車を走らせた。時刻は17時半。の仕事が終わるまで少し時間があるが、車の中で待機すれば問題ない。
いつもと同じ路肩に車を停めてエンジンを切る。時間を確認するとまだ17時40分を少し過ぎたくらいで18時までにはまだ時間があった。ハンドルに腕を乗せてもたれかかる。ここはオフィス街のため、外にはスーツ姿の男や綺麗めな服装をした女が行き交っていた。
のことを考える。あいつは俺のことをどう思っているのだろう。会社から自宅までの送り迎えをするだけというこの関係をどう思っているのだろう。俺と付き合っていた頃のことや、俺が『他に好きな女が出来た』と言ってを捨てたことをどう思っているのだろう。考えれば考えるほどに頭が痛くなってきて、ハンドルに額をつけてうなだれる。
その時、コンコンという何かを叩くような音が聞こえた。伏せていた顔を上げて音の方向を見ると、車の窓ガラスを叩いている男の姿があった。短く切りそろえられた清潔感のある黒髪に綺麗なスーツを着こなした男前。軽く会釈をしながら見せた笑顔はとても爽やかで、歳は俺と同じくらいだろうかと勝手に予想する。
ボタンを操作し窓を開けると、男は「突然すみません」と口にした。俺の車を不審車両だと判断し通報した奴が居たのかもしれない。だとしたらこの男は私服警官だろうかと考えるも、俺が今まで見て来た刑事や警官に似たオーラなどは一切感じなかった。
「あの、オレはそこの会社の者なんですけど」
男はそう言ってもう一度会釈をしてから背後にあるビルを指さした。警官ではなかったことに安心した反面、男が指さしたビルはの会社が入っている建物で軽く動揺する。は俺の存在を会社に知られたくない様子だったためどう言い訳をしようかと思考を巡らせた。いっそこのまま逃げてしまおうかとキーに手を伸ばす。
「あの、失礼ですが……、あなたは、ちゃんのお知り合いですか?」
男の言葉に手を止めて固まった。の名を出されたことにも驚いたが、同じくらい男の言った『ちゃん』という呼称が引っ掛かる。無意識に眉間に皺が寄った。
「この間から何回かこの辺りであなたとちゃんが一緒に居る所を見掛けたものですから。失礼ながら少し心配になってしまって」
「心配……?」
「ほら、ちゃんってすごく人が好いでしょ?もしかして変な人に絡まれてるんじゃないかなって思ったんですよ」
男は眩しい程の笑顔を浮かべていたが、口にする言葉は全てが切れ味の良いナイフのようだった。この男は俺に敵意を向けている。そしてそれを隠す気は一切ないらしい。
俺を『変な人』だと決めつけて来る男に嫌悪感を覚えた。まるでの全てを分かっているかのような口ぶりにいらついて仕方がない。『ちゃんってすごく人が好い』だと?がお人好しなのは言われなくても良く知っているつもりだった。
「俺は……、あいつとはただの知り合いだ。悪かったな、変な誤解させちまって」
ぶん殴ってやりたい気持ちを抑えながら威嚇するように低い声で言う。男は苦笑いをしながら「それは失礼しました」と言った。その表情すらも敵意に満ちていて癪に障る。
この男とここで問題を起こしたとして、の立場を悪くする結果にしかならないということは分かっていた。それだけは避けなければならない。しかしどうやらこいつはを狙っているようだ。『ちゃん』だなんて馴れ馴れしく呼びやがって。怒りの感情がふつふつと湧いてくるのが自分でも分かる。
「変な人じゃないって分かって安心しました。申し訳ありませんでした」
男はこちらに向かって丁寧に頭を下げると、踵を返し会社のビルへと戻って行った。俺は聞こえない程度の小さな舌打ちをしてから車の窓ガラスを閉じるためボタンに手を掛ける。それと同時に背を向けていた男は「あ、そうだ」と大きな声を上げ、俺の方へと振り向いた。
「でも、ただの知り合いならこんな待ち伏せみたいなことしないでもっと堂々とした方がいいんじゃないですか?ストーカーだって勘違いされちゃいますよ」
表情こそ爽やかな笑顔だったが、あきらかに敵意に満ちた空気と棘のある言葉だった。俺には分かる。これは宣戦布告だ。再び背を向けて去っていく男の後ろ姿を見ながら奥歯を噛みしめる。何も言い返せなかった自分が心底情けなかった。
『もっと堂々とした方がいいんじゃないですか?』。男の言葉が頭の中をこだまする。そんなことは言われなくても分かっていた。人目を隠れるかのような場所に車を停めたりせず、本当はもっと堂々とを迎えに行ってやりたい。もっと堂々とを送り出してやりたい。もっと堂々と胸を張ってに好きだと伝えたい。俺は6年前からずっとお前に惚れたままなのだと言ってやりたかった。
ぼんやりとしながらのことを考えていると、時刻はいつの間にか18時を回っていた。そろそろ出て来る頃だろうかと思い会社の出入り口方面に目をやると、らしき人物の姿が見えた。脚を引きずるようにフラフラとこちらに向かって歩いてくる。
「おい!」
思わず大きな声を上げながら車から飛び降りた。小走りで向かうと顔を上げたと目が合う。仕事中に何かしら無理をしたのだろう。治りかけていた脚が悪化したのかもしれない。
「どうした?痛えのか?」
「いや、大丈夫です。帰って薬を飲めば……」
「いいから早く乗れ」
の話を最後まで聞く余裕もなく、助手席のドアを開けて肩を支えながらを車に乗せる。途中でもどかしさを感じて、以前店の前で怪我をした時のように横抱きにしてやろうかとも思ったが、会社の近くでそれをやるのはの迷惑になるのではないかと躊躇した。それに先ほどの男にどこかで見られている可能性もある。
運転席に乗り込むとエンジンをかけ、「出すぞ」と前置きをしてから車を発進させた。は脚が痛むのか俯いたまま何も言おうとはしなかった。
の自宅マンションに到着し車を停める。いつもであればここで一言二言交わしてからを降ろして走り去るところだが今回ばかりはそうはいかない。せめてマンションのエレベーターに乗る所までは肩を貸すべきだろうと感じる。
車から降りるの手を取り、体を支えるようにしながらエントランスに向かう。オートロックの鍵を開けてあとはをエレベーターに乗せるだけだ。ゆっくりと歩を進めながらも、覚えのある柔らかな優しい香りが漂ってくることに気が付く。のにおいだ。妙な気分になり、頭がくらくらとしてくる。
俺はこの細い体を支えている自分の手を離すことを惜しいと感じた。出来ることならばこのままずっと肩を抱いて居たい。家の中までを送り届けたい。が眠るまでずっとそばに居たい。の隣で朝を迎えたい。とめどない欲望が胸に溢れ出す。
「故障、中……!?」
俺の不埒な思考を引き裂いたのはの声だった。たったいま意識を取り戻したかのようにハッと息を飲み、が目を向けている方向を同じように見る。そこには張り紙があり、赤く太い文字で『故障中』と書いてあった。下の欄には日付がいくつか書かれており、どうやら明日の夕方までエレベーターは使用できないようだった。
クソが、と悪態をつきたくなる。どこからか俺たちを見ている神様とやらは意地が悪いのか親切なのかたまに分からなくなる時がある。今回の『これ』は、俺がを諦めようとしているのを邪魔しているのか、と近付くチャンスをくれているのか、そのどちらなのだろうか。
大きく溜息をついてからの目の前に立つ。は気を抜いたかのように油断した様子だったため、その隙をつき背中と膝裏に手を回して横抱きにした。まるで中身のない人形かのような軽い体をふわりと宙に浮かせると、は驚きからか「うわ」と大きな声を上げた。
「でけえ声出すな。通報でもされたらどうすんだ」
通報という単語に日和ったのか、は両手で口を塞ぐ。そのまま近くにあった階段を登ろうと脚をかけたその時、は俺の腕の中で身じろぎをした。それで抵抗のつもりかよと言ってやりたくなる。
「ちょ、ちょっと、待って。ここまでしてもらわなくても大丈夫だから、お、降ろしてよ。階段くらい自分で……」
「これ以上悪化されたら俺が困るんだよ。黙っとけ」
制するように強い口調で返すと、は言葉を飲み込むようにしながら黙り込んだ。それ以上の文句を聞く気もなければこのままを放す気もさらさらない。から部屋番号を聞くと、体を揺らさないようにしながらゆっくりと階段を登っていく。
自分の首元から微かな吐息を感じ、鬱陶しいほどに心臓がうるさく鳴った。密着した体から俺の心臓の音が伝わってしまうような気がして怖い。それなのにずっとこのままでいたいと思った。今のぼっている階段が永遠に続けば良いなどとありえないことすら考えてしまった。
の言った305号室がある3階に到着し部屋の前まで行くと、は俺に抱きかかえられたまま玄関の鍵を開けた。扉が閉まらないように足で支えつつ慎重に中に入ると、玄関の床にの体をゆっくりと下ろす。
自分のジャケットにのぬくもりと香りが残っているような気がして、それを振り払うかのように襟に手を差し込んで正した。床に座り込んだままのと目が合う。
俺を見上げる瞳が潤んでいるかのように見え、うるさかった心臓がさらにうるさくなり始めた。そのまま視線を落とし今度は口唇を見る。キスがしたいと率直に思ってしまった。さらに視線を下に落とすと今度はスカートから伸びる白い脚が目に入る。そういえば俺たちがまだ恋人同士だったあの頃、こいつの裸を見る度にその色の白さに目を見張っていたことを思い出した。
数秒間の沈黙。このままここに居れば俺は確実に一線を越えてしまう。何も言わないままに背を向け、外に出ようと玄関のドアノブに手を掛けた。
「ま、待って!」
後ろから何かしらの力を感じてバランスが崩れた。がジャケットの裾を引っ張ったのだということに気が付いた瞬間、俺の体はの上へと覆いかぶさるように倒れ込んでいた。咄嗟に床に手をついたための体を下敷きに押し潰すことだけは避けられた。
まるで押し倒すかのような体勢での顔が目の前にあった。額も鼻も口唇もほんのあと少しで触れ合ってしまいそうな距離にある。焦りを感じて息が上がったが、も同じように苦しそうに息をしていた。早く鳴る心臓の音が聞こえる。それは最早自分のものなのか相手のものなのかが分からない。
まとめ上げていた俺の前髪が一束、額に落ちた。がそれに手を伸ばそうとした時、無意識に腕を掴む。細くて柔らかい真っ白な腕。その瞬間に昔の記憶が呼び起こされ頭の中を駆け巡る。掴んだ腕を床に押さえつけると、噛み付くようにしながらの口唇を塞いだ。
6年前のあの日と同じように優しく髪を撫でる。滑らかな感触も、優しい香りも、いやらしく濡れた形の良い口唇も、何一つ変わっていない。「」と小さく名を呼ぶと、それに応えるかのように俺の背中に腕が回る。もう耐えられなかった。
もう一度触れたいと夢にまで見たの肌に手を這わせながら、こいつは俺と別れてからの6年の間にどんな男を愛し、どんな男に抱かれてきたのだろうと考えた。を迎えに行った時に会社の前で俺を不審者扱いしてきた男が居たが、そいつはを狙っているようだった。もしかしたらあの男にが抱かれる日がいつか来るのかもしれない。もしその日が来たとしても俺にはそれを止める権利も資格もない。それは痛いほどに分かっていた。
「……」
懇願するように、切望するように名を呼んだ。俺の背中に腕を回して、俺の腕の中に居る今だけは、俺の物だけであって欲しいと。ただそれだけを願った。
番外編
白々しく潰れてみれば (R15)