許してくれよ馬鹿 - 6
今までにないくらいにとてつもなく良い夢を見た気がする。ぼんやりと目を開けると見慣れない天井が視界いっぱいに広がった。いま何時なのだろうかと思い、眠る時にはいつも近くに置いているはずのスマホを手探りする。その時、自分の隣で何かがもぞもぞと動いた。
俺の隣に居たのはで、あどけない寝顔をこちらに向けていた。声も出ないくらいに驚きベッドから落ちそうになるもなんとか耐える。一糸纏わぬの姿に思わず目をそらそうとしてしまったが、昨日の出来事が一瞬にして蘇り、ああそうかと思いながら頭を抱えた。
と別れてからの6年間、俺は女と関わらずに生きて来た。日常生活に支障などは全くなく、自分は性欲が少ない男なのかもしれないと思ったこともある。でもそれは違った。ずっと好きだった女に無防備な姿を見せられて我慢できなかった。こんなのはまるでケツの青いガキのやることだ。俺のような30の半ばを過ぎた男がやることじゃない。
脱ぎっぱなしになっていたジャケットを拾い、ポケットからスマホを取り出す。時刻を確認するとまだ深夜にも及ばない時間だった。もう一度ベッドまで戻り、横になっているを覗き込む。変わらない穏やかな寝顔。一定のリズムで響くすうすうという寝息を聞いているだけで胸が苦しくて仕方がなかった。
自分は一体何をしているんだろうという酷い自己嫌悪と後悔に襲われた。俺はの脚が完治するまでの一週間でこいつを諦めようと思っていた。それが最後のチャンスなのだと自分に言い聞かせていた。でもそれは違った。
一日でも長くのそばに居れば俺はますますに執着し、ますますを諦めきれなくなる。あの日『他に好きな女が出来た』と嘘をついてを捨てた俺にまだお前が好きだという権利もなければ、に触れてを抱く資格も俺にはなかったはずなのに。
の寝顔を見る。ついさっき俺の下で「とおる、とおる」と何度も俺の名を呼んでいたことを思い出した。あれが夢でなくて良かったと思う反面、夢であれば良かったのにとも思ってしまう。
「悪かった……」
謝罪の言葉を小さく呟き、眠るのこめかみに口唇を落とした。もうここには二度と来ない。もうの前に二度と現れない。そう決意しながら部屋を出る。置手紙などは何も残さなかった。
翌日の夕方、俺は借りていた車を返すために九十九課を訪れた。杉浦は俺の顔を見るなり「やっと返しに来てくれたの?」なんて嫌味っぽく言いながらも相変わらずの笑顔を浮かべていた。先日は不在だった九十九も今日は事務所に居るようで、挨拶もそこそこにデスクに向かって何かしら作業をしているようだった。
車のキーを返してすぐに帰ろうと思っていたが、杉浦が珍しくコーヒーを煎れてくれた。来客用のテーブルに出されたマグから湯気と良い香りが立ち上っている。俺はソファに腰を下ろし、スラックスのポケットからキーを取り出してテーブルの上に置いた。
出されたコーヒーに口をつける。ふと気が付くと向かいにある一人掛けのソファに杉浦が座っており、まるで凝視するかのようにこちらをジッと見つめていた。「なんだよ」と声を掛けるも杉浦は俺を見つめることを止めない。
「東さん、やっぱりまだ、車返さなくていいよ」
杉浦はそう言いながら、テーブルの上に置いたキーをこちらに向かってスライドさせた。何故そんなことを言われるのかが分からず、俺は軽く首を傾げながら手に持っていたマグをテーブルに置く。
「だって東さん、まだ何かやり残したことがあるって顔、してるもん」
杉浦の言った言葉の意味が分からなかったが、それと同時に図星を突かれたような気持ちになり心臓が大きく跳ねる。何も言い返せないでいる俺に構うことなく、杉浦は続けた。
「この間言ってた、店の前で怪我させちゃったっていうお客さん。今、その人の送迎やってるんでしょ?ウチの車使ってさ」
冷静を装うつもりでいたが予想外の言葉に動揺してしまう。俺は九十九課に車を借りに来た際、杉浦に『店で客に怪我をさせてしまったため、そいつを送っていく』と説明していた。しかしの送迎をしていたことまでは知らないはずだ。
「お前、それ……、誰から聞いた?」
「誰から聞いたとかじゃないよ。まぁ、風の噂ってやつかな?まぁ僕たちも一応プロだし。ね?九十九君」
気が付くと向かい合う俺たちのすぐ近くに九十九が立っており、頷きながらこちらに穏やかな笑みを向けている。杉浦に九十九。まだ駆け出しとは言えこいつらはプロの探偵だ。手段こそは分からないものの、俺がここに車を借りに来た時点である程度の事態の把握はしていたのかもしれない。
九十九は何も言わないまま、杉浦の隣にあるソファに腰を下ろした。こちらに顔を近付けながら俺をジッと見つめて来て、瞬きもしないその様子を少し気味悪く感じてしまう。身を退いて距離を取ろうとした時、九十九はニヤリと歯を見せて笑った。
「ボクには分かりますぞぉ、東さん。あなたはどうやら恋をしていますねぇ?そうでしょう?」
「……は!?」
自分の意思に反して体が動き、思わず立ち上がった反動でテーブルに脚をぶつける。痛みなど感じない。マグに並々と注がれたコーヒーの水面が揺れ、今にもこぼれてしまいそうだった。
「テ、テメ……!オイコラ九十九!適当なこと言ってんじゃねえぞ!大体、お前みてえな奴に何が分かるってんだよ!」
「ちょっと東さん?言っとくけど九十九君は恋愛経験めちゃ豊富なんだよ?神室町に居た頃からモテちゃってモテちゃって、そりゃもうすごいんだから」
「おやおやぁ、それはちょっと盛りすぎですぞ、杉浦氏」
顔を合わせて笑い合う杉浦と九十九の姿を見ながら、一気に頭にのぼった血が今度は一気に下におりていく感覚がする。大きな声を出したせいか息が上がっており、それを整えるようにしながら俺はゆっくりとソファに座り直して顔を伏せた。
やり残したことがあるとか、恋をしているとか、何もかもが図星だった。それは自分でも分かっている。図星だからこそ何も言い返せない。『やり残したことなんかない』『恋などしていない』そう口に出して言いたいのに声が出なかった。
「ねぇ、東さん」
杉浦の声が俺の名を呼んだ。顔を上げると、見慣れた笑顔がそこにある。
「何があったかは知らないけどさ、伝えられるうちにちゃんと言っておかないとダメだよ?もしかしたら伝えられなくなる日が、いつか……、来るかもしれないんだから」
綺麗な笑顔は次第に哀愁が混ざった複雑な表情に変わる。杉浦は過去に心から大切に想っていたかけがえのない存在を亡くしている。『もしかしたら伝えられなくなる日がいつか来るかもしれない』という言葉は、今までに聞いた何よりも重みがあるように感じた。
「ったく……、お前らみてえなガキどもに説教される日がくるなんて、俺も随分と落ちたもんだな……」
「あー、ひどい言い方。いまさら僕たちのことガキ扱いするわけ?せっかく仲間としてアドバイスしてあげたのに」
杉浦はそれこそまるで子供のように口をとがらせ反論し、九十九は俺の悪態を気にすることもなく優しい笑顔をこちらに向けていた。神室町を離れたこの異人町という街に居る二人の仲間の存在がとてつもなく有難く思えて仕方がなかった。
テーブルの上に置きっぱなしになっていた車のキーを手に取り、スラックスのポケットに戻す。ソファから立ち上がると、座ったままの杉浦と九十九がほとんど同時に俺を見上げた。
「悪い。もう少しだけ車、貸しといてくれ」
返答を聞かぬまま事務所の外に出る。背後から「オッケー」という聞き慣れた声が聞こえた。
九十九課を出てから車に乗り込み、そのままの会社に向かった。いつもを迎えに行っていた18時が迫っていたがいまさら引き返すことは出来ない。いつもより乱暴な運転であるという自覚はあった。はやる気持ちを抑えきれなかった。
会社近くのコインパーキングに車を停め、一先ずは呼吸を整え気持ちを落ち着かせる。何度か深呼吸をした後に車から降りて、会社の出入り口が確認出来る少し離れた場所で待機した。これはもう誰がどう見ても不審者だしストーカー行為だと言われても反論できない。誰に通報されようと後ろ指さされようと、に会えるのならもう何もかもどうでも良かった。
しかし、いつも迎えに来ていた18時どころか19時、20時、21時を過ぎても一向には現れなかった。もしかして今日は会社を休んでいるのだろうか。俺が待ち伏せていることを予想し警戒して裏口から出たのだろうか。嫌な予感が頭に浮かんでは消え浮かんでは消えを繰り返す。
ここまで来ていまさら帰ることなど出来やしないと決意し待ち続け、22時を過ぎた頃に会社の出入り口から出て来る見慣れた姿を視界に捕らえた。だった。何時間も待たせやがってという文句を言いたくなりつつも心臓がうるさく鳴り始める。声をかけるため冷静を装ってゆっくりとに近付いた。
少しずつ距離を詰めていくとぼんやりとしていたの姿が鮮明に見えて来る。そしての背後に男の姿があることに気が付いた。
「ちゃん!お疲れ!いま帰り?」
微かに声が聞こえる。『ちゃん』という呼称。短く切りそろえられた清潔感のある黒髪。俺の物とは比べ物にならないくらいの綺麗なスーツ。間違いない。あの男は以前俺に宣戦布告をしてきた男前だ。
咄嗟に近付こうとしていた脚を止めた。と男は向かい合って何かしらを話している。その内容までは聞き取れないし聞きたくもないが、俺の目から見た二人の姿はとても親し気に見えた。絵になるというのはこういうことを言うのだろう。考えたくもないことが頭に浮かんできて奥歯を噛みしめた。
良い大学を出ていて、良い会社に勤めていて、社会的地位があるような男がにはふさわしい。そう考えていたこともあった。例えるならそれはいまの目の前に居るような男だ。あの男と一緒になることこそがにとって幸せなのかもしれない。
そこまで考えたその時、男がさりげなくの腕を掴んだ。まるで恋人同士かのように横をついて並び、同じ歩幅で歩き出す。視界に広がる光景をぼんやりと眺めながら、自分の中にあるくだらない考えが次から次へと消えていくような感覚がした。
『俺の女に触るんじゃねえ』と声に出して言ってやりたかった。良い大学を出ているだの良い会社に勤めているだの社会的地位があるだのカタギだのヤクザだのそんなことはもうどうでもいい。俺はが好きだ。もう何年もずっとだけが好きだ。この気持ちだけは誰にも負ける気がしなかった。
「」
足早に近づき名を呼んだ。は涙を流していて、濡れ切った瞳で俺を見ていた。どうして泣いているのかという疑問が浮かび、それがゆっくりと消えていく。が俺を見てくれているという嬉しさが、ただひたすらに胸に溢れた。