許してくれよ馬鹿 - 7

 の白い息と俺の白い息が、目の前の空間で重なって見える。俺が名を呼んでもは返事をしなかった。瞬きすらもせずにただ呆然と俺だけを見つめ、その視線は痛いほどだった。

 俺は大股で近付いての腕を掴む。出来るだけ力を込めないようにしようと考えていたものの、感情ばかりが先走ってしまい上手くいかない。踵を返し来た方向へと歩き出すと、俺に引っ張られる形でが後ろを着いて来た。

ちゃん!?ちょ、ちょっと!何処に……」

 背後から例の男の声がした。振り返り、眉間に深い皺を寄せて凄むように睨みつける。しかし男は怯むことなく睨み返して来た。良い度胸じゃねえかと思い笑みがこぼれそうになった。この男がを想う気持ちは生半可なものじゃないのだろう。

「あ、先輩。あの……」

 俺たちが何か言い合うよりも先にが声を上げる。何を言おうとしているかは分からなかったが、俺は手でその口を塞いだ。は俺の手のひらの中で「むぐ」というくぐもった声を上げながら混乱した表情でこちらを見上げた。

 目の前の男はを想っている。文字通り惚れているんだろう。その気持ちは嫌と言う程に分かってしまう。何故なら俺もに心底惚れているからだ。しかしは譲れない。はいま俺の腕の中で何か言おうとしているが、何も言わせる気などはなかった。これ以上この男にの声を聞かせてたまるか。こいつの声も髪も腕も脚も、何もかも全て俺の物だ。

「悪い。こいつは、お前には渡せねえ」

 そう吐き捨てて、を半ば引きずるようにしながら歩き出す。予想外にもはおとなしく、俺に身を任せるように後ろをついてきた。

 車を停めているコインパーキングに真っすぐ向かい、助手席のドアを開けての体を押し込んだ。この光景は第三者から見たら誘拐にしか思えないのだろう。元恋人に対するストーカー疑惑までかけられているうえに誘拐まがいのことをしている今、場合によっては本当に通報されてもおかしくなかった。通報したい奴がいればいくらでもすればいい。ヤケになったような気持ちで助手席のドアを思い切り閉めると、運転席側に回り車に乗り込んだ。

 車内は静まり返っていた。22時半に近い時間帯のせいもあってか外には人通りもほとんどない。静寂の中で、何を言おうか何から話そうかと頭の中をいまさら整理し始める。衝動的にここへ来てしまったため頭の中はからっぽだった。ただに会ってその顔を見て好きだと言いたかった。それなのにいざとなるとの表情を確認することにも日和ってしまう自分が心底情けない。

「なんで、ここにいるの?」

 俺よりも先にが口を開いた。先ほどからずっと刺すような視線が俺を攻撃し続けている。何も答えない俺に対しも同じように何も言わなくなる。再び訪れる沈黙。

 黙り込むのことが気になり視線を向けた。目が合ったがそらされ、はそっぽを向き窓の外を見始める。外には何もないし誰もいない。オフィス街の暗闇がただひたすらに続いているだけだ。さっきはあの男と散々見つめ合っていたのに俺とはそれをしてくれないのか、とお門違いないら立ちを感じてしまう。

「なぁ、さっきのあいつ、なんなんだよ」

 衝動的にした質問には「は?」と間の抜けた声を出した。声色を聞く限り不機嫌さが全面に現れていて、窓の外に向けられた顔をこちらに向けようとはしてくれない。そのまま黙り込んでしまったに不安を覚える。

「この間言ったよな、お前は危機感がなさすぎんだって。男舐めてんじゃねえぞ。大体ああいう無害そうな顔した野郎が一番やばかったりすんだよ」

 必死だった。例えばあの男がに好きだと言ったら?昨夜の俺のようにを押し倒したら?にキスをして体に触れたら?こいつはそれを許すのだろうか。それこそ俺を受け入れたように何もかもを委ね、あいつに抱かれるのか。考えただけで吐き気がした。

「それ、徹が言うんだ」

 がやっとこちらを見る。表情は予想通りの不機嫌そうな顔で、そこに僅かな悲しみが混ざっているように見えた。俺と同じように眉間に皺を寄せているが、僅かに震えているのが分かる。は運転席側に身を乗り出して俺に顔を近付けた。

「徹なんか、昨日はやることやって私のこと置いてさっさと帰っちゃったくせに」

 その言葉はもっともで、まるでみぞおちに正拳でもくらったかのような気持ちになり息が浅くなる。

 あの夜は仕方がなかったのだと自分のことを棚に上げて反論したくなった。ジャケットに残るぬくもりや優しい香りを感じたら我慢できなくなった。こちらを見上げる濡れたような瞳も、スカートから伸びる白い脚も、俺の髪に触れようとした綺麗な手も、全て6年間ずっと夢に見ていたようなものだ。自分から手放したとは言え、6年間ずっと想い続けていた相手のあんな姿を見て耐えられるはずなんかなかった。

「あ、あ、あれは……、全部!全部お前が悪い!お前が……、お前が可愛すぎんのが悪ぃんだよ!俺を誘惑しやがって!全部お前のせいだろうが!」

 に向かって人差し指を突き付けながら、自分の中にため込んでいた思いを一気に吐き出す。は口を開けてぽかんとしたかと思うと、すぐ次の瞬間には般若のような表情で「はぁ!?」と大きな声を出し、反論してきた。

「何言ってんの!?誘惑なんかしてないでしょ!」

「したんだよ!」

「してないよ!」

「した!」

「してない!」

「した!」

「してない!」

 俺たち二人の大声が車内に反響する。恥ずかしさと興奮で自分の顔が熱くなっていくのが分かった。今の俺の顔はきっと赤いのだろう。あまりにも自分が情けなく感じて、思わず「クソ」と小さく独り言ちる。の目から自分の顔を隠したくなり、車のハンドルに額を付けて顔を伏せた。

「いまさら、そんなこと言わないでよ」

 震えた声。どこか涙が混ざっているように聞こえた。顔を上げての方を見る。案の定大粒の涙を流しながら俺を見つめていた。丸く白い頬に次から次へと涙が伝っていく。何と声を掛ければ良いのか分からず俺は黙り込んだ。

「私のことふったのに。他に好きな女が出来たって、私よりも好きな女が出来たって、私のことふったのに。私はずっと徹のこと好きだったのに、好きなのに、6年前から、今でもずっと」

 耳を疑った。そして同時に昔の記憶が呼び起こされ、頭の中を駆け巡っていく。

 あれは俺とが付き合うよりも前のこと。風邪を悪化させ何日も寝込んでいたの部屋に押しかけて看病した。は泣きながら「私、東さんが好きです」と言った。その時の俺は、惚れている女がまさか自分と同じ気持ちでいるなんてこんなことがあるだろうかと思った。

 『6年前から今でもずっと徹のことが好き』。が口にした言葉を頭の中で繰り返す。は昔からそうだ。俺が心底惚れてやまないという女は、自分の気持ちを伝えることに躊躇している俺を置き去りにして、いつだって俺よりも早く俺に好きだと言ってくれる。

 俺は『他に好きな女が出来た』と大きな嘘をついてを捨てた。それなのにまるで正反対の想いが胸に溢れ出す。俺を置いて行かないでくれ、俺と一緒に居てくれ、と声に出して言いたくなった。

「他に好きな女が出来たなんて、嘘に決まってんだろ」

 涙を拭っている濡れ切ったの手を掴み、顔を近付けた。その細く白い腕に力を込めて壊さぬようにと思ってもどうにも上手くいかない。指先がの腕に食い込んでいく。

「お前には……、極道の俺なんかよりもっと良い相手が居るだろうって、思った。だから嘘をついたんだよ。それでもお前を忘れたことなんか一度もねえ」

 今まで散々口にすることを躊躇っていたのが嘘かのように、素直な気持ちが口からこぼれ出す。

 は俺にはもったいないくらいの良い女だ。美人だし頭も良いし愛嬌があって誰からも好かれる性格だ。危機感がなく少し抜けている所も、自分の損得など二の次に考えてしまうお人好しな所も、争いごとを避けるような平和主義な所も、全て好きだった。あの頃のは裏の社会で生きる極道の俺には眩しくてたまらなかった。

『伝えられるうちにちゃんと言っておかないとダメだよ?もしかしたら伝えられなくなる日が、いつか……、来るかもしれないんだから』

 杉浦の言葉が頭のなかに蘇る。この想いを言葉にして声に出して伝えなければならない。言わなければならない。相手の目を真っすぐに見つめた。の視界にはもう俺しか映っていない。

「俺が惚れてんのは、昔も今もお前だけだ、

 ゆっくりと優しくの顎に触れた。頬と同じようにそこも涙で濡れ切っていて、指先に生温い水の感触がする。の顔を持ち上げながら自分の顔を少しだけ傾けつつ近付け、口唇と口唇を触れ合わせようとした。

「馬鹿!」

 その瞬間、大きな叫び声と共に強い殺気のようなものを感じる。閉じかけていた目を開くとこちらに向かって振り下ろされる腕が見えたため、咄嗟に掴んで動きを止めた。心臓がきゅっと縮こまるような思いがした。

「テメ……!いきなり殴るこたぁねえだろうが!この暴力女!」

「うるさい、うるさい、自分勝手、最低、ひどいよ」

 はまるで子供の悪口かのような単語を繰り返し、嗚咽を漏らしながらひたすらに涙を流していた。の攻撃を止めてしまったことを後悔する。どうせならば受けておけば良かった。は俺を殴って当然だし、俺もそれを受け入れるべきだと思う。

 何も言えなくなり黙り込んだ。はそんな俺の首に腕を回して強く抱き着き、頬ずりをする。涙の感触との柔らかい頬がくすぐったくてたまらなかった。

「私には、徹以上の人なんかいないよ。だからもう、私から離れないで」

 申し訳ない気持ちと愛おしいと思う気持ちで胸が張り裂けそうになる。小さく「悪かった」と囁きながら、の背中に手を回して優しく撫でる。強く抱き締めることを躊躇うほどに弱々しく震えて泣くが好きで好きで仕方がないと思った。

 俺の鎖骨辺りに顔を埋めるの肩を掴み、顔を上げさせた。涙の溜まった瞳が俺を見つめる。濡れ切った頬に口唇を這わすと、はくすぐったそうにしながら小さく笑った。その声とその表情があまりにも可愛くて、俺は半ば無理矢理に口唇を塞ぐ。

 昨夜、を抱いた時と同じような、「んぅ」という唸るようなぐぐもった声が聞こえる。自分の中の欲が駆り立てられ、それがどんどんと大きく溢れ出しそうになるのが分かった。手をスカートに滑り込ませ、柔らかな太ももに触れる。

「と、徹?ちょっと、待って」

 先ほどまではまるで子供のようにわんわん泣いていた涙声が、どこか冷静に俺の名を呼んだ。

「待てるかよ。今日まで6年間耐えたんだぞ。これ以上は無理だ」

「え、でも昨日、し、……したじゃん。私ん家で」

「あれは別だろ」

 一切譲る気のない俺の返答に、は「でも」だとか「だって」だとか曖昧な言葉を繰り返す。それを無視し、髪に顔を埋めて耳を甘く噛んだ。の小さく甘い声が聞こえてきてますます気持ちが高ぶってくる。大きく息を吐いてから服の裾に手を突っ込み、肌に直接触れた。

「せめて家に帰ってからにしてよ!」

 大きな叫び声が聞こえた。こちらに向かって振り下ろされる腕が視界の端に見えたが、今度はそれを止めることなく受け入れる。の小さな手が俺の頬の辺りにぶつかり、ぺちんと弱々しい音を立てた。

 はゆっくりと俺の頬から手を離す。まさか俺が平手を受け入れるとは予想していなかったのだろう。黙り込み、ただ俺だけを見つめた。

「俺を止めたいならもっと本気で来いよ、馬鹿」

 そう言って笑いかけたが、は何も言い返してこない。気の抜けたようなぽかんとした顔があまりにも可愛くて、俺はもう一度噛み付くようにキスをした。