大好きな人に呪いをかけることにした。 - 3

 自宅に到着してからほんの数分後、インターホンが鳴り響いた。時間的に東さんだと思い、迷いなく玄関のドアを開ける。眉間に皺を寄せた見慣れた表情がそこにあった。

「お嬢……、玄関を開ける時はモニターで確認してからにしろっていつも言ってるじゃないですか。不用心ですよ」

「ごめん、うっかりしてた」

 東さんはぶつぶつと小言をこぼしながら靴を脱ぎ、それを礼儀正しく揃えて置く。

 彼はたまに母親みたいなことを言う。いや、この場合は父親と言った方が良いのだろうか。東さんだと分かっていなければ玄関など簡単に開けないし、そもそも居留守を使うから大丈夫、といつも思っているけれど、それを口にして伝えたところでまた小言が増えるだけと分かっているので、私は何も言わない。

「ほら、買ってきましたよ、生姜焼きの材料。パパッと作りますから待っててください」

 手に持っていたビニール袋を胸ほどの高さに上げながら、東さんはどこか嬉しそうに言った。キッチンのフックにかけてあるエプロンを手に取って、手際よく身に着け紐を結ぶ。

 あのエプロンは私が自分のために用意した物だ。あまり自炊をしないためエプロンの出番は少ないけれど、こうして東さんがしょっちゅう食事を作ってくれるので日の目を浴びている。

 私が私のために買ったエプロンは、アイボリーの生地に花や葉などの植物のイラストが敷き詰められている。紐の部分は薄いピンク色で、その可愛らしい雰囲気のエプロンを東さんが身に着けている姿を見ると、いつも笑いそうになってしまう。そして同時に、彼の姿が可愛くて、愛おしいと思う。

 キッチンに立つ大きな背中がキャベツを刻み始める。とんとん、とんとん、まな板に包丁がぶつかる音。ざくざく、ざくざく、キャベツが細くバラバラに刻まれていく音。心地良い響きに身を任せる。

 母親みたいだ。さっきも頭の中を通り過ぎた感情が再び蘇る。東さんは男の人だから、母親というのはやっぱり間違っているかもしれない。母親でないならば父親か。東さんとは十歳程度しか歳が離れていないため、親とは考えにくい。ならば兄か。でも逆に十歳以上も歳が離れていると、兄妹だとは考えにくい。私は東さんを家族だと考えたくなかった。でも東さんは私を家族だと認識している。

 下味をつけた豚肉がフライパンに放り込まれた。じゅうじゅう、という音と食欲をそそるにおいが立ち込める。火を使っているからか、東さんの後ろ姿がせわしなく動き始めた。

 自分は何て自分勝手なのだろうと心底思う。自らかけた呪いを解いてしまいたいと思ったり、逆に一生解けなければ良いとも思ったりする。東さんを私という重荷から解放したいと思ったり、逆にそれこそ死ぬまで一生そばに居て欲しいと思ったりする。

 ――いつもお嬢のそばに居ます。俺が、ずっと、そばに居て、あなたを守りますから。

 あの時彼が言った言葉が頭の中で再生される。

 私は東さんが好きだ。けれど、東さんがそばに居てくれるのは呪いがあるから。『松金貢の孫娘を一生守らなければいけない』という呪いがあるから。良く漫画やラブソングなんかで「あなたを守りたい」だの「きみを守るよ」だの言ったりするけれど、一体何から守るというのだろう。悪漢? 災害? 世間? 東さんを縛り付け苦しめ続けているのは私自身だと言うのに、その東さんがどうして私を守るのか。どうにもならないループに巻き込まれているような気がして、頭が痛くなってくる。

「出来ましたよ、お嬢。お待たせしました」

 気が付くと、ダイニングテーブルの上に出来上がった食事が並んでいた。作り置きしておいたわかめと豆腐のお味噌汁。沢山炊いて冷凍しておいたご飯。そして、一番真ん中のお皿には東さんが作ってくれた生姜焼きが、キャベツやトマトと共に堂々と鎮座している。良いにおいと共に湯気を上げているそれは、つやつやときらめいてとても美味しそうだ。

「ほら、冷めないうちに食べましょう」

 私の席の向かいには、当然のように同じメニューが用意されている。お味噌汁、ご飯、生姜焼き。鏡合わせに並べられたお皿に向かうように、東さんが席に着く。同じように椅子へ腰を下ろすと、私たちの目が合った。

「いただきます」

「いただきます」

 どちらからともなく口にして、食事を始めた。レンジで温めたばかりの冷凍ごはんは熱すぎて冷めるまで手がつけられない。先に生姜焼きを一口食べると、その美味しさに目尻が勝手に下がってしまう。東さんはどこか満足そうに笑い、私は何だか恥ずかしくなってしまって少し俯く。

「はちみつを入れてみたんです。コクが出るとかって聞いたんで」

「すっごく美味しいよ。東さん、店出せそう」

「いやいや、それは褒め過ぎですって」

 同じように東さんの目尻も下がっていく。

 次から次へとご飯を口に運んだ。美味しいご飯と大好きな人が目の前にあるというこの食卓が、私をこの上なく幸せな気分にさせた。しかしその幸せな空気すらも、私の中の悪魔が一瞬にして色を変える。お前はその大好きな人に足枷を取り付けたのだと、耳元で囁いて私を絶望の底へと突き落とす。

 分かっているからもうやめて。両手で耳を塞ぎたくなるも、私の右手にはお箸が、左手にはご飯の入ったお茶碗が握られていた。生姜焼きに箸を伸ばして掴み、口の中へ放り込む。キャベツをいくつかまとめて掴んで、口の中へ詰め込む。早くこの美味しくて幸せな食事を終わらせて、耳を塞ぎたい。その一心だった。

「ごちそうさまでした」

「ごちそうさまでした」

 いただきますの挨拶と同じように、どちらからともなく口にして食事が終わる。洗い物はいつも私の役目だった。シンクの前に立ち、冷たい水で皿を洗う。お湯を出せば少しは楽になるけれど、お湯を使って洗い物をすると手が荒れがちになるので嫌だった。

 すると、私のすぐ横に東さんが立ち、私と同じように食器を洗い始める。まるで同棲をしている恋人同士か、新婚夫婦みたいだなんて思うも、口が裂けたって声に出して言えるはずなんかない。東さんの顔を見上げると何も言わずに優しい笑みをこちらに向けた。この人はいつもそうだ。美味しい食事を作ってくれたお礼にと始めた食器の片付け。それなのに東さんはいつも手伝ってくれる。いつも私を気遣ってくれる。

「ありがと」

 小さくお礼を言った。東さんは特になにも返してはこなかった。

 食後のお茶を軽く飲んでから、東さんはすぐに帰り支度を始める。時刻は二十時を少し過ぎた頃。もうこんな時間かと言いたくなるような、反対にまだ帰らなくても良いのではと引き留めてしまいたくなるような、曖昧な時刻だと思った。

 東さんは椅子に掛けていたジャケットを羽織り、襟に手を差し込んで正している。彼のその仕草が、私は好きでたまらなかった。目が合い、凝視していた自分に気が付いて、わざとらしくも慌てて目をそらす。東さんはフ、と小さな笑い声をもらした。表情は見えない。けれどその声はひどく優しかった。

「じゃあ、帰ります。戸締りしっかりして寝てくださいよ。最近は物騒な奴らが――」

「分かってるってば、もう。心配症なんだから。大丈夫だよ」

 電話口でも聞いた同じ警告に少しだけうんざりしつつ、笑いながら東さんの言葉に自分の言葉を重ねた。そんな私の態度が気に入らなかったのか、東さんはほんの少しだけムッとしたように口を尖らせる。

「そりゃ心配もしますよ。お嬢に何かあったら、……組長おやじに殺されちまいますから」

 東さんは呟くように言うと、こちらに背中を向けて玄関の方向へと歩いて行った。

 心配してくれる気持ちを心底嬉しいと思いながらも、組長という単語が頭の中にこだまして、再び私の中の悪魔が笑い始める。胸の痛みにも悪魔の笑い声にもさっさと慣れてしまいたいと思うのに、どうにも上手く行かない。

 玄関で靴を履いた東さんがこちらに振り返った。何処か寂しそうな顔をしているように見えたのは、私の中の悪魔が見せた幻でしかない。

「また明日、同じ時間に来ます」

 また明日。その言葉が胸に刺さる。

 明日からもう来なくても良いよ、とも言えない。帰らないで今夜はそばに居て、とも言えない。あの日のように抱き締めて貰うことも、反対に彼を抱き締めることも出来やしない。ただ東さんの目を見つめて、小さく頷いた。

「うん。また明日ね。東さん」

 声は震えていなかったし、冷静を装えていた。我ながら完璧だと自分を褒めたくなる。

 東さんは背を向け、そのまま玄関のドアをくぐり外の世界へと消えていった。ドアが閉まり切る大きな音が響き渡る。その音はまるで私の頭を強く殴りつけたかのような音だった。冷静を装っていた姿が、完璧だったはずの私が、一瞬のうちに崩れ去る。立っているのが億劫で、その場にしゃがみこんだ。

 私が処女を捨てた日。一度だけ東さんに抱いて貰った日のことが、今でもずっと頭から離れない。脳味噌の中にいつまでもしがみついて消えてくれない。私がかけた呪いから、東さんを解放してあげるべきなのかもしれない。解放してあげなくてはいけないのかもしれない。それがいつまでも出来ずに、彼に甘え続けている自分を心底気色悪いと思う。

 玄関前に座り込んだまま、何の変哲もないドアを眺める。お尻にくっ付いているフローリングがあまりにも冷たい。自分以外誰も居なくなった部屋は、おじいちゃんが死んだあの日のように静まり返り、寒々しかった。


 ああだこうだと悩み抜いているにも関わらず、お腹いっぱいご飯を食べて、お風呂に入ってあたたまって、ふかふかのベッドでぐっすり眠ってしまう自分が酷く無神経な人間に思える。薄っすらと目を開くと、カーテンの隙間から朝日が射し込んでいた。何かしらの夢を見たような気がするも、もう忘れてしまって思い出すことも出来ない。

 今日の予定は何もない。バイトも入っていないし、友達も居ないので遊ぶ相手も居ない。買い物は先週に済ませてしまったから欲しい物も特にない。今夜も東さんが来るはずなので、少しだけ部屋の片付けでもしておこうか、なんて今更なことを考える。洗濯をして、掃除機をかけて、東さんが来る前に大体のことは終わらせておこう。特に下着などの衣類を見られるのは流石に恥ずかしい。

 なんとなく今日の予定を考えながら、ベッドに寝ころんだまま枕元に置いておいたスマホを手に取る。画面に指を滑らせてニュースの見出しだけを流し見た。どこぞの国の首相が辞任の意思を表明した。どこぞの俳優が結婚した。どこぞのサッカー選手が移籍後の初ゴールを決めた。私にはまるで関係がない世界の出来事かのように、流れては消えていく。

 ふと、主要ニュースの見出し一覧の近くにある『みんな喜ぶ!定番おかず!』というコラムが目についた。

 私にとっての定番おかずと言えば、唐揚げ、ハンバーグ、生姜焼きなどだろうかと考える。全て東さんが作ってくれた物で、東さんが作るご飯は何だって美味しい。でももし私が東さんのように料理が上手に出来たとしたら、彼はここへ来て私のために食事を作ったりはしないんだろう。

「お料理、かぁ……」

 独り言を呟く。もしも私がまともな食事を作れるようになったら、東さんは驚くだろうか。褒めてくれるだろうか。そんなことを考えながら定番おかずのコラムを眺めていると、急に画面が固まり応答しなくなる。そして見慣れた電話番号が大きく表示された。着信だ。浮かび上がっている『東さん』という名に心臓が跳ねる。呼吸を落ち着かせつつ、応答ボタンをタップした。

「おはようございます。俺です、東です」

 昨日と同じように真っ先に名乗った東さんに、無意識に口角が上がってしまう。今夜も東さんがここへ来るのは分かっているけれど、それにしても連絡が早いなと感じた。

「今日は随分早いね」

 いつもであれば午後か、私のバイトが終わる夕方ぐらいに電話があるはずだ。思っていたことを率直に口にする。すると東さんは電話の向こう側で小さな溜息をついた。

「いや、今日は午後から忙しくなりそうなんで先に電話しておこうかと……。起こしちまいましたか?」

「ううん。もう起きてたから、大丈夫」

 正確に言えば、目は覚めていたけれどベッドから起き上がってはいない。自分の体の上に乗ったままの布団を引きはがし、ベッドから降りて軽く伸びをした。背中の辺りからパキパキと関節が鳴る音が聞こえる。それと同時に東さんの「今日は何が食いたいですか?」という質問も聞こえてきた。

 先ほどまで見ていた定番おかずのコラムを思い出す。唐揚げ、ハンバーグ、生姜焼き。東さんが作る料理はどれだって美味しい。もし私が東さんのように料理が上手に出来たとしたら、少しは安心させられるかもしれない。

「私、自分で作ってみたい」

 一瞬だけの沈黙。そして東さんはすぐに「え?」と小さく声を上げた。

「私にお料理、教えてくれない? 東さん」

 甘やかされて育った私は、二十余歳になっても未だにまともに料理が出来ない。東さんのように綺麗なキャベツの千切りは出来ないし、コクが出るようにとはちみつの隠し味を入れたりも出来ない。でももしそれが出来るようになったのならば、東さんを解放してあげられるかもしれない。せめて彼の前では、一人でも生きて行けるようにと努力したい。そう思った。