大好きな人に呪いをかけることにした。 - 4

 今までの人生でまともに料理をしたことのない女が、初めて食事を作る。そのハードルが高いことを東さんも分かっていたに違いない。一先ず今回作ることにしたのはカレーだった。これは東さんの提案で、カレーなら材料とルーさえあれば何とかなるだろうと考えているようだった。

 日が沈み、辺りの街灯がぽつぽつと灯りをともす頃、東さんはいつものようにビニール袋を片手にやってきた。近くのスーパーで買い物をしてきてくれたようで、中には玉ねぎ、にんじん、じゃがいも、カレールー、そして、豚肉、鶏肉、牛肉と、それぞれ同じ量の肉が三種類入っていた。

 どうして三種類もお肉が? と不思議に思いながらそれぞれを眺める。そして何も言わないまま東さんの顔を見ると、彼はその様子を見て疑問を察したようだった。

「すんません。何のカレーを作るか聞きそびれちまったんで、とりあえず全部買ってきました」

 日本のカレーライスの材料と言えば、玉ねぎ、にんじん、じゃがいも、そして肉が定番だ。鶏肉を入れるチキンカレーなのか、豚肉を入れるポークカレーなのか、牛肉を入れるビーフカレーなのか、それぞれ違ってくる。わざわざ三つとも買って来てしまう所が東さんらしいと思いつつも、はっきり言って私にはどの肉であろうとどうでもよかった。重要なのはカレーを作ることそのものなのだから。

「東さん、どのお肉がいい?」

「え、いや、お嬢が決めてくださいよ。食うのはお嬢なんすから」

「何言ってるの。東さんも一緒に食べるんでしょ。いつも私に晩ご飯のメニュー訊いてくるじゃない。たまには東さんが決めてよ」

 いつもよりも少しだけ強めの口調で言うと、東さんはウッと息を飲むようにして黙り込んだ。そして数秒間考えた後、肉が入ったプラスチックのトレーをひとつ、指さす。彼が選んだのは牛肉だった。

「なんで急に、料理なんか……」

 まるで愚痴でもこぼすかのように東さんが呟く。私はそんな彼を後目に、袋からカレーの材料を取り出し、キッチンの作業スペースに置いていった。玉ねぎは一つ、にんじんは一本、じゃがいもは二つくらい入れてしまおうかな。などと考える。

「私もお料理くらい出来るようになって、いつかは独り立ちしなきゃでしょ。いつまでも東さんに頼るわけにはいかないし」

 舌の上を、すらすらと言葉が流れて外に出て行く。これは本心だ。そうしたい。そうしなければいけない。でも、東さんの顔をまっすぐに見て言うことは出来ずに、彼に背を向け、キッチンと向かい合う。

 まな板を取り出し、さて何から切って行こうかと考えた。ふと、私の言葉に対し、東さんから何の返事も返って来ず、不可思議な沈黙が訪れていることに気が付く。どうしたのかと思い後ろへ振り返ってみると、彼は口を結び、まっすぐに私を見ていた。その目はどこかぼんやりとしていて、そんな表情の東さんを見るのは初めてのような気がした。

「独り立ち……、ですか。お嬢が……」

 いつもであれば吊り上がってばかりいる東さんの眉毛がほんの少しだけ下がって、皺を寄せながら真ん中に寄っていく。東さんはいつも眉間に皺をよせて険しい顔をするけれど、今回のそれは険しい顔と言うよりも、苦しそうな顔に見えた。思わず、あ、と声を上げそうになる。あの日のことを思い出してしまった。

 私の上に覆いかぶさった大きく広い胸。痛いのか気持ち良いのか分からない感覚の中で、酸素を求め必死に呼吸をした。真上にいた東さんは私よりもよほど余裕がなく、私よりもよほど苦しそうに息をしていた。少なくとも私にはそう見えた。どうして、あの時、あんな顔をしたのか。

 見ていられなくなり無理矢理に目をそらした。戸棚を開けて包丁を取り出し、音を立てて締める。まな板の上に包丁を置いて、素早く大きく息を吸い、そして吐いた。淡い思い出に流されてはいけないと、心を落ち着かせるための深呼吸だった。

「東さん、もしかしていま私のこと馬鹿にした? 二十歳も超えてんのに今更料理かよって思ってたりする?」

 肩が凝ってしまうのではないかと思うほどの重たい空気を変えたくて、冗談めいたことを口にしてみる。東さんは「え!」と大きな声を上げた。私はそれを背中で受け止める。

「ち、違いますよ! 俺がお嬢を馬鹿になんてするわけないでしょう!」

 どうやら私の冗談を東さんは本気と受け取ってしまったようだった。振り返って目を合わせる。無理矢理に口角を上げて、わざと目を細めて、歯を見せながら、「冗談だよ」と言って笑った。我ながら不格好で不細工で下手糞すぎる笑顔だったと思う。東さんの目にどんな風に映っていたのかは、分からないけれど。

 仕様もない冗談と、私の作り笑顔でなんとか空気を変えることに成功した。東さんは安心したかのようにフ、と小さく笑い、キッチンに立つ私の横についた。二人でまな板と、包丁と、並んでいる材料を見つめる。

「とりあえず、何から切ればいい?」

「まずは野菜からいきましょうか。大体一口サイズぐらいに切れば良いですよ。玉ねぎはくし切り、にんじんは乱切りで……」

「くし切りってなに? どういうの?」

 東さんは、質問ばかりする私の顔を見て表情を歪ませた。まるで、マジかコイツ、とでも言いたげな顔だった。東さんがそんな言葉を私にぶつけることはないと分かってはいるけれど、少なくとも私にはそう見えた。

 包丁を手に取り、まずは玉ねぎから切ることにした。上部にある少し出っ張った所を切り落としてから、皮をむく。次に根元を切り落とし、放射状に包丁を入れて適切な大きさに切る。東さんのアドバイスを聞きながら手を動かし、これがくし切りというやつなのかと考えた。

 次はにんじん。東さんによると、にんじんの皮には栄養があり食べられるようで、剥くか剥かないかはそれぞれの好みによるらしい。私は皮を剥くのが面倒に感じたので、そのまま一口ほどのサイズに切り落とした。

「にんじん、あんまり好きじゃないから入れたくないな……」

 オレンジ色の硬い物体を包丁の上でズタズタに切り刻みながら、独り言を呟いた。隣で聞いていた東さんは、ほんの少しだけ顔を傾けて私を覗き込むようにして見る。どこか楽しそうな表情をしていた。

「お嬢は昔っから好き嫌いが多いですよね。セロリとブロッコリーも苦手でしょう、確か」

 なんでそんなこと知ってるんだろうと思いつつも、小さな頃から一緒に居るのだから当然と言えば当然なのかもしれない。私と東さんは家族みたいなものだ。家族。自分で考えたことなのに、胸が苦しくなる。

「セロリはまだちょっと苦手だけど、ブロッコリーはもう食べられるようになったよ」

 楽しそうな東さんを見ていたら悔しくなって、対抗するように言う。私の苦手な野菜の三大巨頭はにんじん、セロリ、ブロッコリー。しかし子供の頃に苦手だった野菜のいくつかを、大人になってから食べられるようになるというのは良くある話らしい。私は苦手な野菜の三大巨頭のうちのひとつ、ブロッコリーを既に克服していた。

 東さんは驚いているのか、数秒間黙り込んだ。どうしたのかと思い、まな板に落としていた目線を上げて隣を見る。東さんはどこか悲しそうな、それでいて優しい笑顔で私を見ていた。

「お嬢も、大人になったんですね」

「もう、なに言ってんの。もうとっくに大人だよ私は。いくつだと思ってんの私のこと」

 玉ねぎとにんじんを切り終わった。次はじゃがいもを手に取る。これであれば東さんのアドバイスを受けなくても一人で処理出来そうだ。まずは皮を剥いてしまえばいいんだよね。自分で自分に確認するように心の中で呟きながらピーラーを取り出し、じゃがいもに当てて引き下ろす。

「もう俺は、必要ねえってこと、ですかね……」

 ざり、という音がして、じゃがいもの皮が剥ける。細く薄いそれはピーラーの隙間からまな板の上に音もなく落ちた。まるで私みたいだと思った。細くて、薄くて、ちっぽけで、栄養もなければ食べられるわけでもない。何の役にも立たないじゃがいもの皮。それが自分のように見えてしかたなかった。

 動揺を表に出さぬよう努めながら、すぐ隣に居る東さんを見上げた。彼は笑っていた。その表情から「もう俺は必要なくなる」という言葉が軽い冗談なのだということが分かる。先ほど言った「私のこと馬鹿にした?」という冗談の仕返しのつもりなのだろう。あまりにも心臓に悪い冗談だった。

「なんつーか、少し、寂しいです」

 何も言い返せなかった。前に向き直り、黙ってじゃがいもの皮を剥く。ざりざり、ざりざり。不格好な音を立てながら不格好に皮が落ちて行く。鋭い刃物にも重力にも勝てない無力なじゃがいもの皮。私みたいな、じゃがいもの皮。

 少し寂しい? 私は少しどころじゃなくて死ぬほど寂しいよ、なんて、この思いは絶対に口に出してはいけない。本当はずっと東さんのそばに居たい。東さんにそばに居て欲しい。でもこの呪いはいつか解かなくてはいけない。だっていつまでも東さんを私の元に縛り付けていたら可哀想だから。今や彼は極道でもなんでもない。ただのカタギ。自由になるべきなんだ。

 その後のことは、なんだか良く思い出せない。じゃがいもを適当に切って、お肉を適当に切って、材料を適当に炒めて、適当に煮込んで……。東さんの指示に従い、ルーの外箱に書いてある手順通りに作業したら、カレーはいつの間にか出来上がっていた。

 炊き立てのご飯。作り立てのカレー。美味しいなんてことは食べなくても分かってしまう。それなのに、どうしてか味を感じなかった。もしかしたらこれが東さんと一緒に食べる最後の食事なのかもしれないと思うと、スプーンを持つ手が石のように重かった。肉も野菜も柔らかく、風味豊かなカレールーが染み込んでいる。美味しい。間違いなく美味しい。それなのに、何も分からなかった。

 いつもと同じように、使った食器は二人で一緒に片付けた。冷たい水を使って皿を洗い流していく。隣に立つ東さんは特になにも言わず、私も同じように何も言わなかった。何を話せば良いか分からなくなっていた。

 二十時過ぎ。いつも東さんがこの場所を後にする時間だ。予想通り東さんは椅子に掛けていたジャケットを羽織り、帰り支度を始めた。襟に手を差し込んで正すという、私の好きな仕草をする。

「じゃあ、帰ります。戸締りしっかりして寝てくださいよ。最近は――」

「最近は物騒な奴らが増えてるから、でしょ。大丈夫だってば」

 たった昨日と同じように、東さんの言葉に自分の言葉を重ねて掻き潰す。いつも通りの軽口で、いつも通りのやり取りだった。しかし、今日は東さんの様子が少し違っていた。何も言わず、ただ黙って私に背を向けるとそのまま玄関へと歩を進める。背中が妙に冷たく、そっけなく、よそよそしく見えた。

「東さん」

 玄関で靴を履こうとする東さんを呼び止めるように、名を呼んだ。

「私、もう、一人でも平気だから」

 東さんの動きが止まる。見慣れた暗いグレーのスーツ。その後ろ姿にゆっくりと近付く。手を伸ばせば簡単に触れられそうな所まで距離を縮めた。私には、いまここで言わなければならないことがある。大きく息を吸った。

「私、カレーだって、もう一人で作れる。そのうち生姜焼きも作れるようになっちゃうかも。はちみつとか入れちゃってさ。夜道だって気を付けるから送り迎えもいらない。これからは色んな人と話して友達もたくさん作るよ。そしたらきっといつか良い出会いがあって、彼氏なんかも出来ちゃったりして……、だから、……」

 自分でも何を言っているのか良く分からなかった。頭の中に浮かぶ言葉をただ闇雲に声にして外へ吐き出す。声が震えているのが自分でも分かったけれど、もう止まれなかった。

「だから……、東さん、明日からはもう来なくても大丈――」

 明日からはもう来なくても大丈夫。その言葉は最後まで口に出来なかった。

 目の前の東さんが急にこちらへ振り向く。腕を掴まれ強い力で引かれた。私の体はバランスを崩し、東さんの胸の中へと倒れ込む。大きくて硬い筋肉が頬にぶつかって、熱い感触が背中を這って行く。東さんの手のひらだ。骨が軋みそうなほどの強い力で抱き締められて、自然と体が反ってしまう。耳元に東さんの顔が埋まる。息が、ひたすらに熱かった。

「やめろ」

 耳のすぐ近くで低い囁きが聞こえた。心臓が心臓でなくなってしまったかのように早く鳴る。息が上手く出来ない。胸かお腹か分からないけれど、ただ体の中心の部分が締め付けられるように痛い。

「お嬢は俺がいなきゃだめだろ。俺がいなきゃだめだって、……言ってくれ」

 東さんの腕が締まる。ますます息が出来なくなる。抱き締められているせいで、彼がどんな表情をしているのかが分からない。ただ声は唸るように低く、恐怖すら感じるほどだった。痛みからなのか、苦しさからなのか、目から涙がこぼれた。このまま東さんに強く抱き締められ、背骨でも折られて死んでしまいたい。そんな馬鹿みたいなことを考える。

「東さん」

 なんとか息を吸い、絞り出すように名を呼んだ。すると、私の体を包んでいた力が緩められ、幾分か呼吸がしやすくなる。東さんの体はゆっくりと離れていった。見えなかった顔が見えるようになる。東さんは、睨むような目線をこちらに向けた。先ほどまで上手く息が出来なかった私よりも、余程苦しそうに見えた。

「すんません。少し、頭、冷やします」

 それだけを言い残すと、東さんは足早に出て行った。玄関ドアが勢いよく閉まる。外の冷たい空気が部屋の中に一気に流れ込んで、震えた。

 壁にもたれかかり、そのままずるずると床にへたり込む。息を吸って、吐いて、吸って、吐いて。何度も何度も繰り返すのに、心臓はいつまでも落ち着いてくれはしない。

 ――俺がいなきゃだめだって、……言ってくれ。

 頭の中で繰り返される声。だめだと言えたなら、もしだめだと言ったのなら、東さんはどうするんだろう。

 東さんに、幸せになって欲しいと思う。私に縛られないで自由になって欲しいと思う。その足枷を外してあげたい。それなのに、彼を苦しそうな表情にさせてばかりいるという自己嫌悪に、私は押し潰された。