大好きな人に呪いをかけることにした。 - 5

 寒い。どれくらいの時間が経ったのだろう。玄関に座り続けていたって東さんは帰っては来ないと分かっているのに、腰が重たくて仕方がない。鼻がむずむずとして一度だけくしゃみをした。このままだと流石に風邪をひいてしまうと思い、脚に力を込めてなんとかその場に立ち上がった。

 足元がふらついて、自分の肩が壁にぶつかった。その瞬間、頭のなかに東さんの腕の感触が蘇る。あれはなんだったんだろう。私が独り立ちをすると言えば寂しそうに笑ったり、急に抱き締めて引き留めるようなことを言ったりする。それなのに東さんは、私と居る時に苦しそうな顔をする。私よりもよほど、悲しそうな、苦しそうな顔をする。

 東さんに謝ろう。自分のどこをどのようにして謝罪したいのかも分からないのに、何故か謝らなければならないと思った。東さんはもう必要ないというような酷い言い方をしてしまってごめんなさい。私のお世話係という東さんの役目を奪ってしまってごめんなさい。軽率に呪いをかけてしまってごめんなさい。あなたを好きになってしまってごめんなさい。頭の中に様々な謝罪の言葉が浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返す。

 再び鼻がむずむずとして、もう一度くしゃみをした。寒い。自分だけのこの部屋は、お風呂に入ってもお布団に潜り込んでも、寒くて寒くてたまらなかった。


 それから、数日の時が過ぎた。何日経っても東さんから連絡はなかった。私には友達どころか知り合いすらも居ないので、東さん以外の人から連絡がくることはない。私のスマホはまるで電源を落としてしまったかのように静まり返っていた。

 私は東さんに、自分は一人でも平気だからと言った。明日からもう来なくて良いとも言った。それなのに、いざ本当に東さんに会えないとなると自分勝手にも後悔していた。私の脳内を埋め尽くしていた言葉は、声になって外へと逃げて行った。それが東さんの耳に入ったその時点で、もう何もかもが終わりだったっていうのに。

 東さんが居ない生活はとても静かだった。バイト先と家を往復する日々。あの日作ったカレーは、何日かに分けて一人で何とか食べ切った。東さんの真似をして生姜焼きも作ってみた。カレーも生姜焼きも、一人で食べても美味しくなかった。特に生姜焼きの方は、レシピ通りに作ったはずなのに火加減を間違えてしまったのか少し焦げ付いてしまって、味が良く分からなかった。はちみつも入れてみたけれど、コクも何も分からない。付け合わせのキャベツですら、東さんのように上手く刻むことは出来なかった。

 明日、バイト終わりに東さんから連絡がなかったらシャルルに行ってみよう。あの日のことを謝って、そして自分の正直な気持ちを言葉にして伝えよう。私は東さんにそばに居て欲しいと思っている。東さんが居なきゃだめなんだと思っている。でも、東さんを私のお世話係から解放して、自由に生きて欲しいとも思っている。それを全部伝えてみよう。東さんは何と答えるだろうか。どんな風に思うだろうか。分からないけれど、どんな結果になろうと、後悔はするべきじゃない。後悔をするかもしれないけれど、するべきじゃない。

 翌日。いつも通りの時間にバイトを終え、帰路についた。スマホを確認すると悲しくも予想通り、東さんからの連絡は残されていなかった。いや、もしかしたら私がシャルルへ向かっている間に着信があるかもしれない。自分でも望み薄だと分かっていたけれど、そう考えるしかなかった。

 通り慣れた道を曲がり、赤く光る天下一通りのゲートをくぐる。煌びやかで下品な看板と擦れ違う。シャルルは神室町ヒルズの方向にあるため、ここからは少し遠い。

 左手にコンビニが見えて来て、そろそろすっぽん通りかなとぼんやり考える。そういえばあの通りには松金組がケツモチをしていたキャバクラがあったはずだ。確か店の名はアムール。死体発見の現場となったため流石にもう営業はしていないだろうけれど。

 そこまで考えたところで、ふと足を止めた。目の前にとても綺麗な女性が立っていたからだ。年齢は私と同じくらいか、それとも少し年下かといったところか。手足が長くまるでモデルかのようなスタイル。服装は肩が出ていたり、とても短いミニスカートだったりと大胆な露出ではあるものの、下品さを感じない。

「ねえ」

 女性に見惚れてしまった自分に気が付き、声をかけられハッとする。女性は長いまつ毛に縁どられた大きな瞳で真っすぐにこちらを見ていた。私に声を掛けたのだということがはっきりと分かる。

「いま、暇?」

 これは恐らく勧誘か何かだろう。今時のスカウトというのは相手に警戒心を抱かせぬよう異性ではなく同性を使うのか、と少し感心してしまった。私は何も言わず、ただ小さく会釈をして彼女の横を通り過ぎる。その瞬間、腕を掴まれた。長いネイルが私の肌に軽く食い込む。

「待ちなって。あんた、松金組んとこのお嬢でしょ?」

 予想外の言葉に驚き、振り返って女性の顔を見上げた。松金組がなくなってからもうそれなりの月日が経っている。元々松金組は小さな組だったし、組長どころか私の存在を知っている人などほとんど居ないはずだった。「松金組んとこのお嬢」という久しぶりすぎる呼称に、嫌な胸騒ぎがする。

「ちょい付き合ってくんない? 話があんの。大丈夫、すぐ済むからさ」

 女性は掴んだままの私の腕を放さず、そのまま歩き出した。彼女に引っ張られる形で私もその後ろを歩き出した。彼女は何なのだろう。私の存在を知っているということは、松金組がケツモチをしていた店の従業員だろうか? それとも何かしらの被害をこうむった人だろうか? 女性の見た目から察するに前者の可能性の方が高そうな気がした。

 連れて行かれたのはすぐ近く、天下一通り裏にある第三公園だった。ドラム缶の中で燃やされている火が眩しい。いつも居るホームレスの人たちの姿が見当たらず不思議に思っていると、女性が公園の真ん中辺りに立ち、こちらに振り返って妖しく笑った。ただ笑うだけで、何も言おうとはしない。

「あの、話って何ですか?」

 黙り込む女性の顔が妙に不気味で、恐る恐る問いかける。次の瞬間、自分のすぐ後ろで車のエンジン音が聞こえた。思わず振り返って確認すると、公園の出入口を塞ぐように白いバンが止まっていた。エンジンが切られたのか音が止み、スライドドアがゆっくりと開かれる。中から降りてきたのは見知らぬ男性だった。

「へぇー、こいつがヤクザの孫? 結構可愛いじゃん」

 背が高く、がっしりとした体つきに少し怯んで、一歩だけ後ずさる。はめられた、と気付いたけれどもう遅い。私の背後に居る女は楽しそうに笑い声を上げていた。

「なぁ、あんた、極道大解散で金に困ってんじゃね? ウチら今そういう奴らをスカウトしてグループ作ってんの。金はもちろん食いもんにも酒にも仕事にも困んないしさ、どう?」

 一歩、二歩と距離を詰めながら、男はどこか楽しそうにべらべらと喋り出す。

 この人は恐らく半グレというやつだ。暴力団対策法、いわゆる暴対法が厳しくなり極道が極道で居られなくなった昨今、こういう法律の穴をつくような極道のなりそこないが増えていると聞いたことがある。男性の長い腕を包む袖から、ちらりと刺青のような物が見えた。きっとこの服の下は和彫りがひしめいているのだろう。もしかしたら彼は極道のなりそこないというよりも、半グレに成り下がった元極道なのかもしれない。

「お断りします」

 大きく、はっきりとした声で言った。一歩前へ出て、男に近付く。

 大丈夫。怖くなんかない。声だって震えていない。私は松金貢の孫娘だ。こんな柄の悪い男なんて腐るほど見て来た。誰の力を借りずとも、どんな場面だって切り抜けられる。

「チンピラなんかに成り下がったら、あの世のおじいちゃんに合わせる顔がないので。他を当たってください」

 男は驚いたように目を丸くして私を見下ろした。三次団体とは言え極道組織のトップの孫という、どう考えても甘やかされて育った仕様もない人間に、こんなにもはっきりと意思を示されるとは思っていなかったんだろう。

 私は今からシャルルに行って、東さんに会わなければならない。彼に会って、今度こそ自分の気持ちを伝えなければならない。だから早くそこを退いて。そんな気持ちを込めながら男を睨みつける。すると彼は丸くしていた目を次第に細くして、小さく笑いながら自分の額を一度だけぺしりと叩いて見せた。

「うっわこいつガチだわ! 空気読めねぇー! ヤクザの孫なんか何の役にも立たねえって分かってて、わざわざ誘ってやってんのによぉ」

 あはは、という軽快な笑い声が公園に響く。男は大きな手のひらで顔を抑えながら笑い続けた。その様子が不気味に感じた。

「だり。なんかムカついたから、もういいや」

 男が言葉を発したすぐ次の瞬間、背後に居た女が私の脇の下に腕を差し込んで羽交い絞めにする。しまった。そう思ったのと同時に目の前の男がこちらに腕を伸ばしてきて、私の首を思い切り掴む。太い腕、大きな手のひら、長い指。私の首なんて片手で締め潰せてしまいそうに見えた。

「甘ったれで生意気なお孫チャンは、俺らが教育しなおしてあげちゃおっかなぁ?」

 男は女と目を合わせ、顎で車を示した。公園の出入口を塞ぐように停まっているバンは、良く見るとドアが開けっ放しになっている。このままでは車に押し込まれると気が付き抵抗しようとするも、羽交い絞めにされているため上手く体が動かない。

 頭の中に東さんの顔が浮かんだ。私はシャルルに行かなくてはいけない。東さんに自分の想いを伝えないといけない。こんな所で、こんな奴らに邪魔されてたまるか。思い浮かんでいた東さんの姿が消える。次に現れたのは、おじいちゃんだった。

 おじいちゃん、助けて。

 羽交い絞めにされている上半身は動かない。ならば使うのは下半身だ。後ろ足で女の脛を蹴り上げる。女は怯み、腕の力を弱めた。そのまま後ろへ倒れ込むように体重をかけ、女の体を突き飛ばす。私の一瞬の行動に男は驚いた顔を見せていたけれど、首を掴んでいる手の力が弱まることはなかった。

「こっの……、いい気になってんじゃねえぞ!」

 男は凄むように叫んだ。私は自由になった上半身を使い男の腕を掴む。力は強い。振りほどけない。首を絞める指の力がどんどんと強くなり、呼吸も浅くなる。このままではまずい。

 私は腕を外側から大きく振り上げ、男の手首に肘を食らわせた。自分の脇で手首を挟み込み、体を捻って男の腕を外す。これは関節技の応用で、以前おじいちゃんから教わったものだった。

 ――力ってのはよ、体の中心から遠くなればなるほど使いにくくなっちまう。だから腕ん中で攻撃するんなら手首が一番なんだよ。ここは関節だから、脇で挟んで捻っちまえば相手は怯んじまうし、力を込めれんねえから反撃されにくい。よぉく覚えておけよ。

 おじいちゃんの言葉のひとつひとつが、頭に蘇ってくる。今でも抜けない江戸言葉に不釣り合いの優しい笑顔。それを思い出しながら、男の苦しそうな唸り声を聞いた。

 そのまま頭から男の胸に飛び込んだ。私のような女の体当たりや頭突きなど何のダメージにもならないということは分かっている。それでもほんの一瞬の隙を作るのには十分だった。男はバランスを崩し、その場に尻もちをつく。私は右足を踏み切り、全速力で走り出した。

「オイ! 待てコラ!」

 背後から大きな怒鳴り声が聞こえる。振り返らずに走った。中道通り、泰平通りを抜けると、そのままミレニアムタワー横の道を走る。走って、走って、ただひたすらに走った。思い浮かんでいたおじいちゃんの姿が東さんのものへと変わる。彼の元に行かなければ。頭の中にあるのはそれだけだった。