大好きな人に呪いをかけることにした。 - 6

 喉が痛むのか、肺が痛むのか、もはや分からなかった。こんなにも全力で走ったのはいつ以来だろうなんて、呑気なことを考える。

 気が付くと神室町ヒルズ近くの公園前通りまで来ていた。急いで建物と建物の隙間に身を潜め、息を殺す。遠くで私を呼ぶ恐ろしい声が聞こえてくる気がした。うるさく鳴り続ける心臓は、全速力で走ったせいなのか、それとも恐怖と緊張からなのか。

 壁に背中を擦り付けるようにしながら、ずるずるとその場にしゃがみこんだ。肺いっぱいに空気を吸い込み、そして吐く。怖かった。殺されるかと思った。掴まれていた首がじわじわと痛み、今更ながら両手が細かく震え出す。ここまで逃げてきてしまったけれど、これで正解だったのだろうかと疑問に思う。交番に逃げ込むなりすれば、あいつらを警察に突き出してやれたかもしれない。

 隙間から外を覗き込んだ。私を追い掛けていた男の怒鳴り声は聞こえて来ず、ただ街の雑踏が響いている。どうやら上手く撒けたようだ。無我夢中で走って来てしまったけれど、いま居る場所はシャルルの近くだった。東さんに会いにいかなくては、と懸命にここまで走ってきた。首には痕が残っているだろうし、体の震えも止まらないし、汗もかいて髪もボサボサだ。こんな姿では驚かれてしまうかもしれない。

「あーもう、東さんってば、こんなとこでなにサボってるんすか」

 大きな声に体が跳ねた。東さん。聞こえてきたその単語を聞き間違いだったのではないかと真っ先に疑う。しかし、いくら東さんのことを考えていたからとは言え、幻聴まで聞こえてくるなんて重症にもほどがある。

 もう一度隙間から外を覗き込んだ。すぐ近くに居たのは一人の男性で、見覚えのある服装をしていた。ゲームセンターシャルルの制服だ。ダークグレーのスラックスに、ベージュのベスト。店名などはどこにも書かれていないけど、何度も見たことがあるため分かる。制服と同じく、男性にも見覚えがあった。あれは確か松金組の組員だった人。まだおじいちゃんが生きていた頃、事務所で見かけた覚えがある。名前までは思い出せないけれど。

 そして、制服の男性のすぐ近くに東さんが居ることに気が付いた。煙草を吹かしながら、片手に持ったスマホをぼんやりと眺めている。当然ながら二人とも私の存在には気が付いていない。この場所はシャルルの目と鼻の先だ。仕事の合間に休憩でもしているのだろう。神室町ヒルズのまわりは植物も多く植え込みなどもあるため、腰を下ろしたりするのに丁度良いのかもしれない。

 東さんに声をかけたいけれど、元組員の人が居る前には出て行きづらかった。  私は元組員の人と顔を合わせるのが苦手だ。彼らからすれば渡世の親の孫娘を邪険に扱うわけにはいかない。けれど私は既に極道とは何の関係もない人間になってしまった。どう扱えばいいのかわからないというような雰囲気を感じ取ってしまい、いつだって気まずくてならなかった。

「誰かに電話っすか?」

 スマホを凝視している東さんのことが気になったのか、元組員の彼が問いかける。東さんはまるで溜息を隠すかのように煙草の煙を吐き出した。質問に答える気はないように見える。

「あー……、東さん、もしかして……、まだあの子の世話係やってるとかですか? 電話、してたんでしょ?」

 組員の気だるそうな声が耳に刺さる。あの子。はっきりとは言ったわけではない。それでも「あの子」が何を示すのかは分かってしまう。私のことだ。松金組どころか東城会がなくなった今、私のことをお嬢と呼ぶ人間は東さんだけだ。元組員の彼は、まるで触れてはいけない話題だと言いたげに私のことを「あの子」と呼んだ。少しだけ呼吸がしづらくなる。

組長おやじはもう死んじまったし、組もなくなっちまって、もうあの子はお嬢でも何でもないでしょ。いつまでも東さんがそんな面倒ごとをやる必要ないっすよ」

 あの子はお嬢でも何でもない。そんな面倒ごとやる必要はない。あまりにも正論すぎる言葉の全てが私を攻撃してくる。外を覗き込んでいた体勢を元に戻し、冷たい壁に背を付けた。いま東さんはどんな顔をしているのか、どんな気持ちで話を聞いているのか、知るのが怖かった。

「んなこと、言われなくても分かってる」

 ハァ、という大きな溜息が聞こえる。私にはそれが東さんのものだと、すぐに分かった。

「あの人は組長おやじの大事な忘れ形見だ。知らん顔するわけにはいかねえだろ」

 東さんの溜息と、吐き出す煙と、正しさしかない言葉が、神室町の雑踏にふわりと浮かんで、消える。それと一緒に私自身も消えてしまいたかった。

 私は組長の忘れ形見。組長が残した大切な人。だから、東さんは私のお世話係を続け、私を守ってくれていた。そんな当たり前のことに別に気付かなかったわけじゃない。忘れていたわけじゃない。きっと、気付かないふりを、忘れていたふりをしていた。ふりをしていたかった。東さんは、本当は私自身を気にかけてくれているんじゃないかって、私自身を大切に想ってくれているんじゃないかって、私のこと好きなんじゃないかって、そう思っていたかった。

 あの人は組長の大事な忘れ形見だから。そりゃ、そうか。

 私はもう、一人でも大丈夫のはずだ。美味しくはないかもしれないけど、カレーだって生姜焼きだって作れる。悪い奴らから自分の身を護ることだって出来る。羽交い絞めにされたって首を絞められたって、きっと負けない。私にはおじいちゃんがついているのだから。松金貢の孫なのだから。きっと一人だって生きて行ける。彼を解放するのに、私の本当の気持ちなんて邪魔になるだけだ。

 外を覗き込む。元組員の彼は既にシャルルに戻ってしまったようで、その場には東さん一人しか居なかった。煙草を口唇に挟み込み、一吸いしてから、大きく煙を吐き出す。東さんはポケットから携帯灰皿を取り出すと、吸っていた煙草をその中に押し込んだ。

 あの携帯灰皿は、いつだったか私が東さんにプレゼントした物だ。もう何年前のことになるだろうか。未だに使ってくれていることに少しだけ感動してしまう。東さんは携帯灰皿と一緒に、凝視していたスマホをポケットに押し込むと、シャルルに戻るためなのか歩き出した。

 東さんの背中を追い掛けるように、隙間から飛び出した。少しずつ小さくなっていく背中を見つめる。息を大きく吸った。もう喉も肺も、痛くはなかった。

「東さん」

 大好きな人の名を大きな声で呼ぶ。気の抜けた顔がこちらに振り返って私を見た。目が合った瞬間、驚きの表情に変わっていく。

「お嬢……? どうして、こんなとこに……?」

 困惑しているのか、声が少し震えているように聞こえた。東さんが反応は予想していた。どうしてここに? なんていう質問に答える気は最初からない。歩を進め、東さんの目の前まで行き、立ち止まる。背が高い彼は、大きく見上げないと目が合わない。

「この間は、ごめんなさい」

 深々と頭を下げて、謝罪の言葉を口にした。東さんは慌てた様子で私の肩を掴んで体を起こし、頭を下げることをやめさせた。ああ、なんだかあの時と似ているなとぼんやり思う。私が東さんに、処女を貰ってくれとお願いした日。私が東さんに呪いをかけた日。三つ指をつき頭を下げてお願いをする私を、東さんは必死に止めた。

 私は卑怯だ。私は松金貢の孫だから、東さんは私に頭が上がらないのを知っていたから、彼の優しさを知っていたから、だから私はそこに付け込んで想い出を手に入れた。処女を貰ってくれと、自分勝手な好意と厄介事を押し付けた。想い出があれば東さんを諦められると思ったからだ。数年前のあの日、彼を好きでいることを諦めようとした私が、今になって自分の気持ちを伝えようとしているなんて、あまりにも虫が良すぎるじゃないか。

「急にどうしたんです? お嬢が謝る必要なんかありませんよ。悪いのは俺――」

「お嬢じゃない」

 東さんの声に自分の声を重ねて掻き消した。彼の大きな声に負けないよう、強く、はっきりと言った。先ほど東さんは言った。そう、お嬢じゃない。もうとっくに、私はお嬢なんかじゃないんだと。

「私、もうお嬢じゃないよ、東さん」

 私の肩は掴まれたままで、顔が近付く。至近距離で見つめ合った。こんなに顔を近付けるのは一体いつぶりだろう、なんて考える。東さんは困惑したように眉間に深い深い皺を寄せて、何も言わずに口を結んだままだった。

「東さん、昔、私の処女貰ってくれたよね? いや、貰ってくれたっていうか……、私が勝手に押し付けたようなもんか」

 あはは、と笑いを交えながら言う。これは自分で自分を茶化し、見下すための笑いだった。

「私、ずっと思ってた。私としちゃったこと、東さんは後悔してるだろうなって――」

「後悔なんかしてねえ!」

 まるで空気が震えたのかと錯覚してしまうほどに大きな声だった。今度は立場が逆転し、私の声が東さんの声で掻き消される。東さんはハッと息を飲み、まるでしまったとでも言いたげな顔をした。

「いや……、そりゃ、俺なんかがお嬢に触れちまったなんて、後悔してねえと言ったら嘘になります。でも、俺は――」

 手のひらを東さんの方に向け、前に突き出す。それ以上はもうやめてという合図のつもりだった。気持ちが伝わったのか、東さんは息を飲み込むようにして言葉を途中で止めた。私よりもよほど悲しそうな顔で、私よりもよほど苦しそうな顔だった。東さんのこの表情を私は嫌というほど見てきた。大好きな人のそんな顔を見るのはもう、たくさんだった。

「もう、やめよう。お互い自由になろうよ。そのほうが、絶対に良いはずだから」

 そのほうが絶対に良い。言葉を口にしながらも、心の片隅で微かに、本当にそうだろうかと疑問に思った。私は東さんなしで生きて行けるだろうか。小さな頃からずっと好きだった人を簡単に諦められるだろうか。それでもそう思うしかなかった。私は東さんのそばに居ない方がいい。いつまでもお世話係なんてしていないで、自由に生きて欲しい。私よりも悲しそうで、私よりも苦しそうな顔をしないで欲しい。

「今までありがとうね。東さん」

 軽く、頭を下げた。先ほどの謝罪の時とは違う、今度は感謝の気持ちを最大限に込めた礼だ。すぐに顔を上げたため東さんに止められるようなことはなかった。彼の顔は怖くて見れなかった。

 東さんの横を通って、歩き出す。私を呼び止めるような声は一切聞こえてこない。これでいい。自分に言い聞かせ、ただひたすら真っすぐに歩いた。歩いて、歩いて、歩いて、しばらくしたら鼻の奥が痛くなって、目が熱くなって、軽くまばたきをしただけではらはらと涙がこぼれた。喉の奥から嗚咽が漏れそうになる。

 私はもう一人でも大丈夫。美味しくはないかもしれないけど、カレーだって生姜焼きだって作れる。悪い奴らから自分の身を護ることだって出来る。きっと一人だって生きて行ける。彼を解放するのに私の本当の気持ちなんて邪魔になるだけ。だからお互い自由になろうだとか、そのほうが絶対に良いはずだとか、すべて私の本心だ。本心のはずだ。

 私は神室町が好きだ。おじいちゃんが生きていた街だから。東さんに会える街だから。でも、もうとっくの昔にお嬢でなくなっていた私には、この街に留まり続ける資格なんかなかった。

「ごめんね」

 人がまばらな道の真ん中で、何に対する謝罪なのかわからない言葉を呟く。それはおじいちゃんが死んだあの日、真っ二つに割れたお猪口を見た時の光景を私に思い出させる。私を構成するちっぽけな世界から、大切な人がまた一人、消えた。いや違う。消えたのではなく、消したんだ。

 私は私の世界から東さんを消した。これでいい。お互いに自由になったほうがいい。そのほうが絶対に良いはずだから。それでも、何度も自分に言い聞かせても、涙も嗚咽も止まらなかった。