きみの名と夜を跳べたら - 6

「あの……? 」

 さんに声をかけられハッと息を飲み、意識がどこか遠いところに行っていたことを自覚する。彼女が僕を探しているという事実は嬉しい反面複雑な気持ちだった。そもそもさんは僕が神室町に居るということをどうやって突き止めたのだろう。

「きみが探してるっていうその人、神室町に居るっていう確証はあるの? 」

 何も知らない他人のふりをしながら問いかける。僕は仮面を着けて顔を隠しているため、いま目の前にいるのが寺澤文也だと気付かれることはないだろう。さんは何か言いにくいことがあるのか言いよどむかのように口元を動かし、目線をきょろきょろと動かす。

「その……、彼、文也くんと深い関りがある男性が神室町に居るんです。深い関りといっても良い意味ではないんですが……。だから文也くんが居るとしたらここしかないんじゃないかと思って。完全に私の勘なので、確証はありませんけど」

 昔からさんはハキハキと物を言うタイプの人だと思っていたが、いま目の前にいるさんは僕の中のイメージとはまるで正反対だった。自信がないのか何度も声を詰まらせ、言葉の各所を濁らせつつ話をする。僕以外の人間の前ではこういう人だったのかもしれないと思うとなんとなく寂しさを感じた。

 さんの言う、良い意味ではなく深い関りがある男性というのは、大久保の弁護をしていた八神隆之のことを言っているのだろう。僕がいま現に神室町に居て、八神さんの行動や様子を気にしていることを考えると、さんの予想は大当たりということになる。僕たちは小さな頃から一緒に居たし、最早家族のようなものだったため、さんが僕を深く理解しているのは当然と言えば当然だ。

 もしかしたらさんは、僕が八神さんへの復讐を考えているのではないかと疑っているのかもしれない。絵美が死んでからの間、そのことを考えなかったわけじゃない。大久保や八神さんが死んだところで絵美が帰ってくるわけではないが、少なくとも僕の心は晴れるかもしれない。

「もうそいつのことは諦めて、家に帰った方が良いんじゃない? 」

 そう言うと、さんは眉間に皺を寄せ苦しそうな顔をする。きっと僕の言葉はある程度予想していたのだろう。名前も顔も分かっている人間を探すということ自体はそこまで難易度が高いことではないとは思う。しかし場所は神室町という治安の悪い危険な街だ。しかも彼女は一度詐欺グループに拉致をされ散々な目に合っている。今後同じ目に合わないという確証もない。

「神室町に着いた途端、チンピラに拉致されてさ、ここがどれだけ怖い所か痛いほどわかったでしょ? そんな目に合ってまでまだ探すつもりなの? そいつのこと」

 僕は当事者であるのに他人のふりをする、ということが向いているのかもしれないと自覚し始めた。さんが僕を忘れないでいてくれて、その上探してくれていることを知って本当に嬉しかった。しかしこれ以上さんを危険な目に合わせたくない。いまここで正体を明かすべきなのだろうかとも考えたが、そんなことをすればさんはきっと僕を連れて帰ろうとするだろう。もう八神隆之に関わるのはやめた方が良いと説得されるかもしれない。

「会いたいんです」

 さんは目を泳がせるのをやめ、真っすぐこちらを見つめていた。

「もう一度、文也くんに会いたいんです。ただ、それだけなんです」

 仮面を着けたままの僕の正体にさんは気付いていない。そのはずなのに、まるでさんは僕が寺澤文也であると確証があるかのように、はっきりと僕に向かって言った。強い意志が感じられるその瞳は、いま僕がここで何を言おうと意見を曲げる気はないのだなということが良く分かる。

「あっそ……」

 ただ一言を独り言のように口にし、僕は軽くため息をつく。そして上着のポケットに手を突っ込み、入れっぱなしにしていたまとまった現金を取り出すと、さんに差し出した。

「これ使って。返さなくていいから」

 さんは現金をゆっくりと受け取り、まじまじと見る。恐らく詐欺グループに拉致された際に身ぐるみはすべてはがされているのだろう。その状態で現金を受け取らないはずはないということは分かっていた。現金がなければ何も食べることも出来ないし、この広い街を移動することもままならないはずだ。

 僕はしゃがみこみ、ソファに腰を下ろしたままの彼女と目線を合わせた。いくら仮面を着けているとは言え、ここまで近づけば正体がばれてしまうのではないだろうかと、自意識過剰なことを考える。

「他の仲間の手前もあるし、もうきみをここに置いておくわけにはいかないんだよね。悪いけど出て行ってくれる? 警察に被害を相談すれば保護もしてくれると思う。ていうか、きみのことは最初から警察に連れて行けば良かったよね。……ごめんね」

 そう言うと、さんは少しだけ悲しそうな顔をしたが、言い返してくるようなことはなかった。俯き、下口唇を噛みしめる表情は心苦しく感じたが致し方ない。

 このまま何事もなく家に帰ってくれれば良いが、なんとなく望み薄な気はした。しかしもうこれ以上さんは僕と関わるべきじゃない。あと数分でも一緒に居れば、僕は我慢出来なくなって彼女に触れてしまう気がした。仮面を取って、キスをして、僕が文也だよと言ってしまいそうな、そんな気がした。

「あの、そういえばあなたにお礼を言っていませんでした。助けてくださってありがとうございました」

 さんは丁寧に言って頭を下げる。そんな彼女に僕は「うん」と小さな相槌を打つことしか出来なかった。


 さんが出て行き、自分以外に誰も居なくなった埃っぽいアジトで溜息をつく。先ほどまでさんが横になっていたソファに軽く触れると、まだぬくもりが残っていた。久しぶりに会ったさんの顔や、声を何度も思い出し、頭を抱える。やっぱり仮面を外して正体を明かしてしまえば良かったかもしれない、なんて思っても今更遅い。

 ポケットに入れていたスマホを取り出し、中に入っているさんの連絡先データを呼び出した。画面にはさんの写真と電話番号が表示されている。つい先ほどまで軟禁されていたさんは身ぐるみをはがされていたため、恐らくスマホも紛失しているだろう。いまさんに電話をかけても繋がらない。そう確信し、僕は通話ボタンをタップする。ワンコール、ツーコールと呼び出し音が繰り返し響くが、繋がる気配はない。このままずっとかけ続けても、さんが出ることはないはずだ。

《……ただいま、電話に出ることができません。大変恐れ入りますが、改めておかけ直しください……》

不通による音声メッセージが流れ出す。

「僕も、ずっと会いたかったよ、さんに」

 それだけを呟き、通話終了ボタンをタップして電話を切る。涙なんか出ない。あの日、早朝の公園で彼女を突き放したのは僕自身なのに、会いたいという気持ちが胸に溢れ張り裂けそうだった。腕の力が勝手に抜けて、スマホが床に落ちる。その音がひどく寂し気に聞こえ、僕は涙が出ないはずの目頭を押さえた。