青空の果て - 4

 母に会いに行く日曜日がやってきた。これでもかというほどに晴れた空には雲一つなく、文也くんと話した屋上の風景を思い出す。心の中はあの日と同じように絶望に近い気持ちで、そこに期待と不安が入り混じっていた。

 文也くんは相変わらず待ち合わせ場所に私よりも早くついていた。ベージュのような落ち着いた色のチノパンと、白い丸首のシャツに黒のジャケットを着ており、いつものカジュアルな服装とは違ってかなり落ち着いて見える。文也くんは綺麗な顔をしているしスタイルも良いので、どんな服装でも似合うのだなと見惚れてしまった。

「ちょっと、そんなに見ないでよ恥ずかしいから。こういう服装慣れてないんだよね……」

 目線に気付いたのか、文也くんは自身の体を見ながら気まずそうに呟く。私が正直に「すごく似合ってるから大丈夫だよ」と伝えると、安心したような笑顔を見せた。この何の変哲もないやりとりがまるで本物の恋人かのようで、胸があたたかくなるような気がした。

 横浜から私の実家があるマンションまでは電車を何本か乗り継げば行ける距離だった。移動中は九十九さんが作ってくれた資料を読みながら、文也くんと小さな声で打ち合わせをした。あっという間に実家の最寄り駅に到着し、そこから歩く。家に近付くほどに、母に近付くほどに、心臓がうるさく鳴って仕方なかった。

 マンションに到着し、エレベーターで上がる。実家の扉の目の前に立つと、一度息を整えた。インターホンを押すために人差し指を出しながら腕をゆっくりと上げる。指先が震えているのが自分でも分かった。自分が生まれ育った家に行き、自分を産み育てた母親に会うと言うだけなのにどうしてこんなにも緊張してしまうのか、自分でも分からなかった。

 その時、躊躇している私の横から腕が伸びて来るのが分かった。それは文也くんの腕で、何の迷いもなくインターホンを押す。驚いた私は思わず文也くんの顔を見た。

「そんなに緊張しなくたって大丈夫だってば。僕がついてるよ。ほら、深呼吸」

 文也くんはこちらに微笑みを向けながら小声で言うと、私に腕を回し背中を優しくさする。その手のあたたかさに涙が出そうになるも、文也くんに触れられているという事実が私を余計に緊張させた。

「はい?……どちらさま?」

 インターホンから母の不愛想な声が聞こえる。訪問者の顔が確認できるようにカメラが付いているはずだが、母は昔からそれを確認しない癖があった。

「お、お母さん。私……」

 震える声でゆっくりと言うと、向こう側に居る母が一度黙り込む。ほんの少しの間を置いてから「玄関、開いてるから入ってきなさい」と言う声が聞こえた。私は文也くんと顔を合わせ、お互いに頷きあう。

 ドアノブに手をかけると本当に鍵がかかっていなかった。母は戸締りをしっかりする性格なので、今日私たちが訪問するということで開けておいてくれたのかもしれない。

 中に入ると玄関で母が仁王立ちしており、面食らう。「ただいま」と言ったが、母は何も言わなかった。自分の生まれ育った家に帰ってきたというのに、どうすれば良いか分からなくなった私は軽いパニックに陥る。すると、私の後から家に入ってきた文也くんが母に深々と頭を下げた。

「初めまして。さんとお付き合いさせて貰ってます、杉浦文也と申します。お招きいただきありがとうございます」

 文也くんはスムーズに言うと、下げていた頭を上げてにっこりと笑う。そして持って来ていた菓子折りを紙袋から出し、両手を添えると「つまらないものですが」と言いながら母に向かって差し出した。私はその行動と口ぶりの滑らかさに驚く。

「あらやだ!ご丁寧にありがとうございます。どうぞ、狭いとこだけど上がって上がって!」

 母は先ほどまでの不愛想な顔を崩し、目尻を下げてだらしなく笑う。そんな母の表情を見たのはいつぶりだろうかと思ったが、見た目も挨拶も態度も気遣いも全てが完璧な文也くんの前では無理もないのかもしれない。本当にこんな人が恋人だったらきっと鼻が高いのだろうな、などと考えた。

 リビングへ進み、ソファに座る。母はコーヒーを用意し、目の前にあるローテーブルに置く。良い香りを漂わせているそれは私が知らないコーヒーカップに入っていた。もしかして今日のために買ったのだろうかと思うも、体裁を気にする母のことだ。その可能性は高いだろう。

「それで杉浦さん。娘との結婚は考えてらっしゃるのかしら?」

 母からのいきなりの質問に、私は手に持っていたコーヒーカップを落としそうになった。動揺が伝わった真っ黒な水面は揺れて波打っている。それをこぼさぬよう慎重にテーブルの上に戻すと、勝手なことを言い始めた母を制するために声を上げる。

「お、お母さん。いきなり何を……!」

「はい。もちろんです。結婚を前提にお付き合いさせて貰ってます」

 私の言葉に被せるように文也くんが言う。慌てふためくだけのみっともないであろう私とは正反対に、文也くんは怖い程に落ち着いているように見える。流石はプロ。その言葉が嘘であるという大前提はあるものの、心臓がうるさくなった。

 戸惑いも迷いもなく、間髪入れない文也くんの返答に母はひどく驚いているようだった。そして深呼吸をするかのように一度だけ大きく息を吐くと、鋭いまなざしで私たち二人を見た。

「杉浦さん。この子の……、のどういう所が好きになったのか、教えていただけませんか?」

 母からの質問は私にとって予想外だった。私の良く知る母ならば、例えば「杉浦さんのお仕事は?」「年収はいくら?」「あんたたち何処で知り合ったの?」「いつ結婚するの?」「子供は何人?」などという、歯に衣を着せぬ質問が飛んでくると思っていたからだ。

 事前の打ち合わせでは「どういう所が好きになったのか」などという話は一切していないため、どう答え、この場を切り抜けるかは文也くんにかかっている。どうしようと思いながら文也くんを横目で見ると、彼は「そうだなぁ……」と呟き、まるで何かを想い出すかのような優しい目を私に向けた。

さんとまともに話をしたのは……、確か屋上、だったよね。高校の」

 思わず「え?」という声を上げそうになったが、喉が詰まったように息苦しくなる。「屋上」「高校」という単語が耳に付き、まるで頭に突き刺さるような感覚がした。打ち合わせでは私たちの出会いは新宿の神室町という設定だったはずだが、文也くんはその話をするつもりがないようだった。

 呆然とする私をよそに、文也くんは目線を母に向けつつ、話し続ける。

「僕、ちょっと色々あって卒業式に出れなかったんですけど、さんは僕に会いに来てくれたんです。第二ボタンくれって。家までおしかけるなんてほんと、面白い子ですよね」

 覚えのある単語の一つひとつが頭の中で結びつき、一本の線になる。上げようとしていた声も、話を途中で遮ろうとしていた思考も、全てが私の中から消えてなくなる。文也くんは母の方を見ながら話していたが、途中でゆっくりとこちらを向き、私を見つめた。

「息苦しい高校生活だったけど、さんと出会えて本当に良かったと心から思います。ちょっと冷めてるけど、優しくて照れ屋で……。僕を助けてくれた、大切で、大好きな人です」

 何が起こったのかが分からなかった。あの頃から十年の時が経ち、“杉浦文也”は、私が良く知る“寺澤文也”のままだった。彼は私を覚えていてくれた。目の前が視界が歪んできたのが分かり、文也くんの笑顔が見えなくなる。

「違うよ……」

 無意識にその言葉が口からこぼれた。文也くんを見ていられなくなり、表情を隠すように俯く。目に溜まった涙が重力に負けてこぼれていくのが見えた。

 文也くんと一緒に行った浜北公園を思い出す。あの時彼は、自分の昔の話をした。“色々あった”と濁していたが、きっと私が想像するよりも何倍も大変なことがいくつもあったんだろうと思った。文也くんの言葉に救われ、のうのうと生きている私は、文也くんが一番つらい時に傍にいてあげられなかった。助けてあげられなかった。

「助けてもらったのは私の方。文也くんが一番つらかった時、私は何も出来なかった、傍に居られなかった。ごめん、ほんとに……、ごめんなさい……」

 ただとりとめのない言葉を口にし続けた。こぼれ落ちる涙が自分の膝にいくつも沁み込んでは消えていく。隣にいる文也くんは何も言わずに、ただこちらを見ているだけのようだった。

「ちょ、ちょっと、やだ、あんたなに泣いてんのよ。やめてよみっともない、まったくもう」

 母の声が聞こえ、私は手のひらで自分の頬をこすりながら前を向く。しかし母の目にも涙が溜まっており、今にもこぼれ落ちそうに見えた。文也くんは小さく、それでいて優しい声で「みっともなくなんかないですよ」と言った。私は彼の方を見れなかった。

 いつまでも泣き続ける私に母は嫌気がさしたのか、今日のところはここでお開きということになった。帰りの支度をしている最中も目の奥が熱く、視界は歪んだままだった。文也くんは「今日はありがとうございました」と言いながら母に向かって深々と頭を下げていた。

 先に玄関から外に出た文也くんを追いかけるように靴を履く。ドアノブに手をかけ家から出ようとした時、母に「」と名を呼ばれた。振り返った先にあった顔はひどく悲しそうに見えた。

「その……、お母さん、あんたのこと産んで、必死に育てて、あんたのこと良く知ってるって、世界一知ってるって思ってたけど、なんか……違ったみたい。……ごめんね」

 歯切れの悪い言い方は私の良く知る母とは全く違っていた。母はいつだってお喋りで、次から次へと私に言葉と気持ちをぶつけてくる人だった。自分勝手で、私の気持ちなんかお構いなしで、私のことなんて何一つ考えてくれていないのだと思っていた。しかし母のその表情を見たら、私の考えは間違っていたのだと気付いた。

「謝らないでよ。お母さんは何も、悪くないから」

 そう言うと、母は困ったような顔をした。いつもの母であればここで「そりゃそうよね、わたし悪くないわよね」なんて堂々と返答しそうだったため拍子抜けしてしまう。母は目を泳がせながらも私を見て、小さな声を出した。

「あんたの彼氏……、杉浦さんのこと、大事にしなさいよ。また遊びに来なさい。美味しいケーキでも買って……待ってるから」

 母の言葉に胸が痛む。私と文也くんは本当の恋人ではなく恋人のフリをしているだけだ。彼を大事にするも何も、きっともうここには二度と来ないだろうし、母と会うこともないだろう。そんな事実を口にすることも出来ず、私は作り笑顔を浮かべながら「ありがとう」と母にお礼を言った。

 そこまで長居しなかったため日は沈んでおらず、帰り道はまだ青空のままだった。マンションから最寄り駅までの道をゆっくりと歩く。文也くんはもう恋人のフリはしなくても良いと考えているのか、私と手を繋ごうとはしなかった。前を歩く大きな背中をぼんやり見つめる。

「私のことなんて、忘れてると思ってた……」

 頭の中にあった言葉が無意識に口からこぼれる。私はそれを口にしたことを後悔しなかった。前を歩く文也くんが立ち止まり、ゆっくりとこちらに振り返る。合わせて私も立ち止まった。

「屋上でさんと話したことも、卒業式の日のことも、全部ちゃんと覚えてるよ。忘れるわけない」

 私はずっと、文也くんには忘れられているのだろうと考えていた。彼の「忘れるわけない」という言葉に退いたはずの涙が再び湧き上がってくるのが分かる。

「正直に言うよ。ほんとは、一番最初にさんに会った時からずっと気付いてた。さんだって分かってて事務所に引きずり込んじゃった。……ごめんね?」

 文也くんはそう言いながら一歩、二歩とこちらに近付き距離を詰める。謝る彼に首を振り、顔を伏せた。自分の足元だけが視界にうつりこむ。

 ここから歩いて駅に行き、電車に乗って横浜に帰ればそこで“恋人のフリ”も終わりだ。私と文也くんは今まで通り赤の他人に戻る。その前に私は彼に伝えなければならないことがあると思った。震える口唇を無理矢理に開く。

「あの時……」

 小さな声が口からこぼれる。あの日の光景が目の前に広がるようだった。管理の行き届いていない鍵の開いた屋上。目が潰れそうなほどの眩しい日差しと雲一つない青空。よじ登って向こう側へ跳ぶには体力が必要そうな背の高いフェンス。何もかもが昨日のことのようによみがえる。

「あの時の私は、確かに文也くんに救われた。文也くんが居たから今の私がある。私にとって文也くんは、ヒーローだよ。……ありがとうね」

 喉がキュッと締まり、声が出しにくい。それでもなんとか言葉にし、ずっと言えなかった気持ちを口にした。地面に靴が擦れるような音がして、視界の端に文也くんの靴が映り込む。腕が伸びて来て顎を掴まれたかと思うと、俯いていた顔を無理矢理に上げさせられた。

「あのさ、さっきお母さんに言った“大好きな人”ってやつ、あれ、……本音だから」

 鼻が触れ合うのではないかという距離に文也くんの顔があった。顎にあった手が首筋に移動し、そこを軽く撫でられる。指先はひどく熱かった。

「僕、ヒーローなんて柄じゃないし……、それよりも彼氏がいい。フリとかじゃなくて、僕をほんとの彼氏にしてよ。さんの」

 文也くんはそう言うと、私の首の後ろに手を差し込み、引き寄せて抱き締めた。背中に太い腕と大きな手が回ったのが分かり呼吸が浅くなる。

「……うん」

 ただ小さく返事をした。自分の体の両脇に力なくぶら下った腕を持ち上げて文也くんを抱きしめ返そうとするも、上手く力が入らなかった。

 自分の居場所も、何をしたいのかも、どうなりたいのかも分からずに迷い、生きる意味が分からなかったあの日。文也くんに救われたあの日から今までずっと私の生きる意味は文也くんだった。彼との想い出も、貰った第二ボタンも何一つ捨てられず、持ち続けたまま生きて来た。それはきっとこの日のためだったのだろう。

 文也くんの肩越しに見えた空はどこまでも青く、日差しは痛いほどに眩しかった。