花笑む狼 - 3
私は一体いつからこんなにも恋愛が下手になったのだろうか。昔は割と簡単に人を好きになっていたような気がするし、常に自分に自信があるような女ではなかったけれど、それでも好きになった人に対して『私はあの人に相応しくない』なんて思うことはなかった。何かを計算したり結論付けたりすることはなく、ただ呼吸をするのと同じように自然と人を好きになっていた。年齢を重ねていくうちに、何故かそれが出来なくなった。
恋愛経験が多いわけではないけれど、私だってキスぐらいはしたことがある。しかし杉浦くんとのキスは今までに経験したことがないようなキスだった。棚に押し付けられた際の冷たく固い感触も、口唇の柔らかさも、混ざり合う二人の息も声も、何もかもが昨日のことのように思い出せる。
“さっさと落ちてよ、僕に”
杉浦くんは私を見つめながら言った。追い詰められ顎を掴まれ、まるで私に暗示をかけるかのようにそう言った。昔の私であればそこであっさりと落ち、彼の気持ちに素直に応えたかもしれない。しかし今の私にはそれが出来なかった。
倉庫内でキスをされた時、私はその場から無様に逃げ出した。そう、告白された夜と全く同じだ。そして翌日から杉浦くんを避けるようになった。仕事の手を抜くことだけはしたくなかったため公私混同しないよう徹底したが、それ以外では杉浦くんから遠ざかるようにした。ただでさえ顔を合わせるのも気まずかったし、その上『強行手段』に出た彼とどう接すれば良いのかますます分からなくなっていた。
その日、私はとある依頼から尾行調査をしていた。終わるころにはすっかり日が落ち、辺りにある夜間営業の飲食店の看板がギラギラと眩しい。時刻を確認するとすでに22時半を過ぎており、私は九十九くんへ電話をかけてひとまずの調査報告をした。
「遅くまでお疲れ様でしたさん。今日はそのまま上がってくだされ」
電話の向こう側で頭を下げている九十九くんを想像しながら「わかった」と返事をする。通話を終了しようとしたその時、九十九くんが「あ、そうそう」と何かを思い出したかのように声を上げた。
「女性がこんな遅い時間に一人歩きするのは危険ですから、杉浦氏を向かわせたのです。少し前にここを出ましたから、そろそろそちらに到着するかと思われますぞ」
その言葉に思わず「えっ」という間抜けな声がもれた。そしてすぐにピンとくる。九十九くんのことだから、きっと私と杉浦くん二人の間に流れる微妙な雰囲気を感じ取ったのだろう。もしかしたら仲違いのようなことをしたと勘違いして、私たちを“仲直り”させようとしているのかもしれない。
「え、いや、大丈夫だよ私ひとりでも。子供じゃないんだし……」
「いーえ!何をおっしゃいますか!いけませんぞぉ!さんが護身術を身に着けた凄腕の調査員だということはボクもよぉーく存じてますが、今の世の中何があるかわかりません!女性が一人で居るよりも男性と一緒に居る方が抑止力にもなるでしょう!?そもそももうすでに杉浦氏はここを出てしまったのでさんに拒否権はありません!ハイ!ではお疲れ様でしたお気を付けてお帰りくだされまた明日さようならバイバーイ!」
九十九くんはこちらが言葉を挟む隙もなく早口で言うと、そのまますぐに通話を切断した。「もしもし」と呼びかけても返事はなく、画面を確認するとそこには何も表示されていなかった。どうしようと考えたのとほぼ同時に、目の前の道に白いバンが停まり、ハッと息を飲む。運転席の窓がゆっくりと開いた。
「さん、お疲れ様。迎えに来たよ」
窓から顔を出した杉浦くんはそう言ってから、いつも通りの笑顔をこちらに向けた。とりあえず「ありがと」と返事をしたものの、気分は重かった。九十九くんの仕事の早さは知っているし、何度も助けられた経験がある。しかしこうも裏目に出ることもあるのかと溜息をつきたくなった。
「乗って。後ろは荷物置いてるから、助手席ね」
せめて助手席ではなく後ろの席に乗ろうと考えていたが、杉浦くんは私の心を読んだかのように言った。僅かな抵抗の可能性すらも潰され、もうどうにでもなれという気持ちにすらなってくる。私はしぶしぶ助手席側に回り、車に乗り込むとすぐにシートベルトを締めた。杉浦くんの方を見ないように自分の膝だけを見つめていたが、車はいつまで経っても発進する気配がない。
ゆっくりと、恐る恐る運転席を見ると、どこか寂しそうな表情の杉浦くんがこちらを見ていた。思い切り目が合い、気まずさを感じた私はそれをすぐにそらしながら、再び自分の膝を見つめる。
「さん、最近僕のこと避けてるよね?思いっきり」
問い掛けの答えは『イエス』でしかなかったが、それを口にすることが出来ずに下口唇を噛む。
「そんなに警戒しないでよ。もう、あんなことしないからさ……」
杉浦くんの声は表情と同じようにとても寂し気だった。そもそも杉浦くんの想いから逃げ、それを否定するでもなければ応えるでもない私が全て悪いというのに、彼を悲しませていることが申し訳なくてたまらなかった。思わず顔を上げて杉浦くんの方を見ると、再び目が合う。
「ねぇ、そろそろ教えてくれない?さんが僕のことをどう思ってるのか。教えてくれたらもう強行手段だなんて言って強引なことしないし、ちゃんと振ってくれたら、……潔く諦めるから」
言葉も声も目も、何もかもが優しかった。そう考えた自分に対して『何を今更』と思う。杉浦くんは最初から優しくて、相手のことを考えてくれる人だ。この間のキスのことで私のことを傷付け悲しませてしまったと考えたんだろう。傷付け悲しませたのは私の方が先だというのに。
今度こそ私は、逃げずに彼の気持ちに応え、自分の考えをしっかりと伝えるべきなのかもしれない。そう強く思いながら杉浦くんを見つめる。私にとって彼は眩しすぎて直視し続けることすら難しく感じてしまう。
「杉浦くんのことは、嫌いじゃ、ないよ。でも……」
絞り出すように言うと、杉浦くんはただ「うん」と返事をした。はっきり言ってしまえばあの時のキスも嫌ではなかったし、今更杉浦くんの気持ちを疑っているわけではない。ただ私は自分に自信がない。私は私自身が杉浦くんの傍に居て良い人間だと思えなかった。
「私は杉浦くんの彼女になって良いような女じゃないから」
「なにそれ。どういう意味?」
杉浦くんは私の言っていることが理解出来ないとでも言うように、眉間に深い皺を寄せた。気まずさを感じた私は目線を右へ左へと泳がせる。
「私、可愛げないし」
「何言ってんの。さんは可愛いよ。自分のこと何も分かってないんだね」
「いや、だって、ほら、人付き合いもあんまり得意じゃないし、仕事のことばっかり考えてるつまんない人間だし」
「僕はそういう所も好きだよ、全部。むしろそこがさんの魅力でしょ。違う?」
「でも、私、美人じゃないし」
「そんなことどうでもいい。てか、さんは可愛いって言ってるじゃん。僕ってそんなに信用ない?」
何を言っても杉浦くんの肯定が私の言葉を潰してくる。恥ずかしいような、自分がひどい勘違いをしているような、そんな気分になってきて頬が熱くなってくる。妙な力が入り、膝の上に置いていた手を握りしめ拳を作った。
「私は、杉浦くんに相応しい女じゃないよ」
ずっと考えていた心の根本にある想いを口にした。杉浦くんもそこで一度黙り、小さく溜息をつく。流石に私に呆れたのかと思い彼の方を見ると、優しい笑顔でこちらを見ていた。
「僕さ、ずっと『自分はさんに相応しくない』って思ってたんだよね」
自分の耳を疑った。杉浦くんも同じように『自分は相手に相応しくない』と考えていたことに驚き、思わず声が出そうになる。
「でも『相応しいか、相応しくないか』って、それを決めるのは自分じゃなくて、相手だなって最近気づいたんだ。僕はさんが好きだよ。僕にはさんしか居ないと思ってる。さんにとって、僕って相応しくない?僕じゃだめ?」
杉浦くんの言葉がスムーズに私の心に落ちて来る。私は『自分は杉浦くんに相応しくない』と思っていたが、彼の言う通りそれは私が決めることではない。杉浦くんが決めることだ。私を見つめ、ただひたすら真剣に、真っすぐに気持ちを伝えている彼に、私も同じように心から真剣に真っすぐ応えたいと思った。
「ダメなわけ、ない……」
言い終わったのとほぼ同時に杉浦くんが自身のシートベルトを外す音が聞こえた。そしてこちらに身を乗り出し、私の両頬に手を添えて顔を持ち上げると、そのまま口唇を塞がれる。口唇はすぐに離れ、至近距離で目が合った。
「ちゃんと言って。さんの口から聞きたい」
杉浦くんの瞳の中に自分の姿が映っているのが分かる。嫌いじゃないとかダメじゃないとか、そんな言葉を並べ立てて誤魔化しても、杉浦くんからも、この想いからももう逃げられないと思った。口唇が震え、声までも震えそうだった。
「私、杉浦くんが、好き」
案の定声は震え、その上で擦れていたため聞き取りづらかったかもしれない。しかし杉浦くんは嬉しそうに笑い目を細めると、そのまま私の額、こめかみ、まぶた、頬、次々とありとあらゆる所に口唇を落として来た。
「あ、あの、杉浦くん、待って、一応まだ仕事中……」
杉浦くんの肩の当たりに手をあて、軽く抵抗の意思を見せたが、腕を取られ動きを封じられる。杉浦くんはどこか満足そうに優しく笑うと、首を傾げながら私を見下ろした。
「悪いけどもう仕事は終わりだよ。九十九君からももう上がって良いって言われてるし」
「いやでも、帰るまではちゃんとしないと……。お家に帰るまでが仕事だし……」
「ええ?冗談でしょ?さんもたまには悪い子になろうよ。僕のためにさ」
杉浦くんはそう言ってから触れるだけのキスをする。そして「まぁ、そういう所も好きなんだけど」と、まるで子供のような悪戯っぽい顔で笑った。彼の姿を見ながら、この人が今日から私の恋人なのか、と考えると恐れ多いような恥ずかしいような、なんともむずがゆい気分になってくる。
“『相応しいかどうか』を決めるのは自分ではなく、相手”
先ほど杉浦くんが口にした言葉を思い出し、頭の中で繰り返すと、ほんの僅かだが自分に自信のようなものが生まれる気がしてくる。私は杉浦くんの首の後ろに腕を回し、勇気を出してその口唇に軽くキスをした。目の前にある彼の顔が薄っすらと赤く染まっていて、ああこんな顔を見れるのは私だけなのだな、と思うと、嬉しいような泣きたいような不思議な気持ちになった。