焼きつく記憶色 - 2

 窓を閉め切った俺の部屋はどの時間帯であろうと薄暗く、ブラインドの隙間から差し込む光の強さで現在が朝ということがかろうじて分かる。

 枕元に置いていたスマートフォンで時刻を確認するとまだ早朝の六時を過ぎたところで、もうひと眠りしようかと思いながら隣を確認するとそこにの姿はなかった。

 上半身だけを起こし、狭い部屋を見渡すもここに俺以外の人間はいない。どうやらは日が昇るよりも前にここを抜け出し女子寮に戻ったようだった。

 妙な寂しさのようなものを感じ、思わず頭を振る。あんなやつとヤッちまうなんて昨夜はどうかしていた。そのどうかしていた気分を今も少し引きずっているだけた。目が覚めた時にアイツが隣に居ないと言うそれだけで、こんな気分になるなんて。

 だるく重い体を引きずるようにしながらベッドから降りると、シーツの上に小さな赤い染みを発見した。小指の爪先ほどしかないそれが血の跡だということにすぐに気が付き、昨夜のことを思い返す。

 まさかアイツ、は処女だったのだろうか?しかし最中は痛がったり怖がったりなどとそれらしい素振りは見せなかったし、事はスムーズに進んだと思う。そして何よりはレイチェルにこそ劣るもののあの見た目だ。男がほおっておくはずもないし少なくとも処女ではないだろう。それならばこの血の跡はなんなんだ。

「クソ、……めんどくせぇな」

 独り言を呟き頭をかく。とりあえずは熱いシャワーでも浴びて頭をスッキリとさせたいと思い、俺はそのまま部屋を出るとシャワー室へまっすぐ向かった。

 シャワー室に入るとヘイデンが頭からタオルを被り歯を磨いていた。そして俺の顔を確認するなり両眉を上げ、歯ブラシを手にしたまま笑いながらこちらに近づいてくる。

「ネイサンじゃん。今日は早いな」

 “今日は”ってなんだよ。そう思うが口には出さない。そもそも歯を磨いている最中に人に話しかけるのはやめてほしい。俺はヘイデンに聞こえるように盛大に溜息をつくと、シャワーブースに真っすぐ向かいカーテンに手をかけた。その時だった。

「なぁー、昨日は“お楽しみ”だったんだろ?女の声、聞こえてたぜ?」

 思わず心臓がドクリと一度大きな音をたてた。動揺を顔に出さぬよう平然を装いながら眉間に皺を寄せヘイデンを睨みつける。しかし彼はひるむことなく同じトーンで会話を続けようとした。

「そんな怖い顔しないでくれよ。な、相手誰なんだ?教えてくれよ」

「うるせぇ。お前には関係ねぇ」

 それだけを吐き捨て、俺はシャワーブースに入りカーテンを閉める。服を脱ぎコックをひねって熱いお湯を大量に出して頭から浴びた。お湯の雫がまつ毛から床にポタポタと落ちていくのが見える。なんだかベタつく体も、起きたばかりでスッキリしない頭も、この妙な気分も一緒に流れてしまえばいい。そう思いながらシャワーを浴び続けた。

 シャワーを終えるとすでにヘイデンの姿はなく少し安心する。顔を洗い歯を磨くと、俺はすぐに部屋に戻った。また誰かと遭遇し妙なことを問われるのが面倒臭かったからだ。

 先程まで眠っていたベッドに腰かけると小さな血の跡が目につく。このシーツも交換して洗濯しなければならないと思うと、何故自分がこんなことをしなければならないのかと怒りがこみあげてきた。

 大体、昨夜の俺はどうかしていた。なんであんな女とセックスなんかしてしまったんだと後悔してももう遅すぎる。に挑発され、それに乗ってしまった。あの幽霊のような白く細い首に出来た自分の歯型を見たら何故か我慢できなくなってしまった。

 昨夜の出来事が鮮明に思い浮かび頭を掻きむしる。とりあえず、だ。と俺が奴隷と主人という関係であることと、体の関係を持ってしまったことは誰かに知られるべきではない。特にビクトリアあたりにでも知られてしまったら何を言われるか分からないし、そんな面倒臭いことにはなりたくない。

 ひとまず今夜、は俺が命じていた別の用事を済ませた報告に再びここへ来るだろう。俺はもう二度と間違いなんか起こさない。同じ轍を踏んでたまるか。

 立ち上がりベッドからシーツを引き剝がす。の血の跡が付いた“コレ”をアイツに洗濯させよう。そう思いながらぐしゃぐしゃに丸めたシーツを部屋の隅に放り投げた。

 日が沈み切り静まり返る深夜の男子寮。は再び現れた。廊下では誰かに見つかる可能性が高いため止む終えず部屋に入れ、すぐにドアを静かに閉める。

 は昨夜と同じように両手にノートや紙の束を持っており、俺はそれをひったくるとソファの上に放り投げた。そして部屋の隅に置いていたシーツを持ち上げに押し付ける。

「テメェが汚したんだ。テメェが洗え」

 はぐしゃぐしゃになったシーツを受け取りジッと見つめる。驚くわけでも悲しむわけでもない、いつも通りの無表情にどこか苛立ちを覚えたがそれに対して何か文句を言うわけでもなく、小さくチッと舌打ちをするだけに留めた。

「もう用事は済んだろ。さっさと出て行けよ」

 冷たく低い声を意識しながら言い、を強く睨む。すると目が合い、がまっすぐに俺だけを見つめ小さく呟いた。

「今日は、しないんだ」

 予想していなかった言葉が聞こえてきたため思わず目を見開くもその表情をすぐに戻す。コイツは一丁前にこの俺を挑発しようとしている。顔は変わらずに無表情のままだが俺には分かる。しかしそんな浅はかな手にのってたまるか。

 俺はに近づき、威嚇するように顔を近づける。小さく細い肩に手を置き力を込めると相手を馬鹿にするような声で言った。

「もうテメェの挑発には乗らねぇぞ。それとも実は欲求不満の尻軽なのかよ?あ?処女疑惑あるくせによ」

 挑発に挑発で返す。この対応が合っているとは思えなかったが、なんだか無性に腹が立ってしまい気が付けば口から言葉が出ていた。しかもシーツについていた血の跡から察した“はもしかしたら処女なんじゃないか?”という疑惑すらも。

 ほんの少しだけ後悔していると、の顔色が微妙に変化したことに気が付いた。眉が若干下がり、俺を見つめ続けていた目を伏せ、自分の足元の辺りを見ているようだった。

「ねぇ、セックスしなくてもいいから、一緒に眠ってくれない?」

 が弱々しく呟く。その言葉も先ほどと同じように予想していないものだった。思わず吐息と共に「は?」という言葉が口から漏れだすも、目線を上げこちらを見つめるの様子は冗談を言っているようには見えなかった。

「昨日は久しぶりに良く眠れたんだ。あなたと一緒に眠れば、またそうなれるんじゃないかって思って」

 そう言いながら再びこちらを見つめるから、俺は距離を取るように一歩後ずさる。しかしそれを許すまいとが一歩こちらに近づき、俺たちの間にある距離が広がることはない。

 “昨日は久しぶりに良く眠れた”。が口にしたその思いには自分にも覚えがあった。おそらくは眠りに落ちるまでに時間がかかるか、眠りが浅くなってしまう不眠のような症状があるのだろう。俺と同じだ。

 俺は薬か酒がないと上手く眠りに落ちれないし、最後にグッスリと眠った記憶なんて最早覚えていないぐらいだ。しかしと共にした昨夜はいつ以来か分からないくらい深く眠れた気がした。

 そこまで考えた瞬間、バサリと布が床に落ちるような音が響き自分の顔に柔らかな感触があることに気が付く。が手を伸ばし俺の頬に手をそえている。まるで母親が子供を慈しむような、愛する人を慰めるような、そんな仕草に思えた。

「私、分かるよ。あなたは私と同じにおいがする。あなたもずっと浅い眠りしかしていないんじゃないの?ネイサン」

 妙な気分だった。緊張のような、高揚感のような、愛おしさのような、様々な感情がぐちゃぐちゃに混ざり合った想いが胸を満たす。俺の頬に触れるの手を剝がして握り、強く自分の方へ引き寄せるとその体を抱きしめた。

 の細い肩は、強く力を込めてしまえば簡単に壊れてしまいそうだった。それこそレイチェルのように。レイチェルを殺してしまったように、俺はのことも壊してしまうのかもしれない。

 背中に腕が回り、が抱きしめ返してきたことが分かる。俺にすがりついてくる、冷たくも暖かい不思議なその体を壊さないように弱く抱きしめるのが精一杯で、鼻をかすめる甘い香りにまるで酔っぱらってしまうようだった。

 キスをすることも、服を脱ぐことも、愛撫をすることも、なにもかもがどうでも良くただひたすらに眠った。暖かく柔らかい水の上に浮かびながらゆらゆらとどこかに流されるような、そんな感覚だった。

 次の日の朝になるとはまた部屋から姿を消していた。床に落としたままだったシーツは姿を消しており、俺が眠るベッドに血の跡はついていなかった。


 毎日似たような授業を右から左へ受け流し、日が沈めば寮に戻って眠りにつき、そしてそのまま朝が来てまたふりだしに戻る。そんな生活の中で唯一変わったことと言えば、今まで浅い眠りしか出来なかった自分が深く眠れるようになったことだ。

 あの日からというもの、は部屋に来るたびに朝方までベッドで一緒に眠り、日が昇ると俺が眠っている間にここを去り女子寮に戻る、ということを繰り返した。もちろん“そういうこと”は一切しておらず、キスどころか触れ合うことすらもしていない。ただ寄り添って一緒に眠るだけ。まるで親と子のように。

 俺が良く眠れるようになった要因はきっとだからとか、そんなロマンチックなことを言うつもりはない。恐らくはという人間の体温のおかげでリラックス出来ているのだろう。

 俺は別にアイツに惚れているわけでもないし、アイツだって俺に惚れているわけでもないはず。俺たちの関係はあくまで“ご主人様”と“奴隷”に過ぎない。をどう扱おうと俺の勝手。それこそダッチワイフにしようが抱き枕にしようが問題ないわけだ。

 校内で見かけるは、夜の薄暗い部屋の中で見る姿と大分違う。俯き加減で長めの前髪が表情を隠し、誰とも話さないと言うよりかは“話しかけるな”とでも言いたげな雰囲気がある。

 廊下や教室での姿を見かけたが、アイツが俺の方を見ることなど一度もなかった。俺がこれだけ視線を送っているというのに絶対に気付きそうなものだが、もしかしたら“気付かないフリ”をされているのかもしれない。そうだとしたらなんだか腹が立って仕方がなかった。

 校舎から寮までの人の気配の少ない通路でを見かけた。相変わらず背中を丸め俯き加減にとぼとぼと歩いている姿はまるで老婆だ。少なくとも見た目は良いのだから少しは気を遣えば良いものを、と考えながら、俺は足早にその背中に近づきの腕を取って引いた。

「おい」

 振り返ったは俺の顔を見るなりに目を見開き、動揺したように口を開けたり閉じたりしていた。その様子がいつも夜に見る姿とは正反対で妙に苛立ちを覚える。何をそんなに慌てふためいているんだか、と呆れて軽い溜息が漏れた。

「明日提出の課題、終わってんだろうな?今夜俺の部屋に持って来いよ。それから……」

「ちょっと待ってプレスコット君」

 聞き覚えの一切ない呼称で話を遮られ、思わず声が止まった。“プレスコット君”?の声でそう呼ばれると背中がかゆくなるような、何とも言えない不快感を覚える。 「なんのことを言ってるのか分からないわ。人違いじゃない?」

 なんだその言葉遣い。なんだその声色。なんだその表情。全てが自分の知っていると違って眉間に皺が寄る。何と返答したら良いか分からずの腕を掴んだままその場で固まっていると、まるで“さっさと放せ”とでも言うようにが俺の腕を振り払った。

「……また今夜」

 とても小さな囁きでが言い、口元にうっすらと笑みを浮かべるとこちらに背を向け歩き出す。その場から動けないままの背中を見ていると、後ろから数名の生徒が俺を追い越していき思わずハッとした。

 俺はとの関係を誰にも知られたくないというのに、どうしてこんな誰に見られてもおかしくないような場所でに声をかけてしまったんだろう。きっとアイツは機転を利かせて「人違いじゃない?」なんて言ったに違いない。

 何をしているんだ、俺は。ひどい自己嫌悪が体中を満たしていく。俺は腹が立っていた。苛立っていた。俺がこれだけ視線を送っているというのに“気付かないフリ”をしているに。俺を一切見ようとしない、アイツに。

 夜になり、いつも通りの時間にはやってきた。言いつけていた明日が提出期限の課題もしっかりと終わらせ、俺に手渡す。内容も申し分なく、以前と同じようにソファの上に乱雑に置くと、俺はそのままベッドに向かう。

 背中にの視線が突き刺さるのを感じた。一歩、二歩とゆっくり、すり足でこちらに近づいてくる。今夜もまた俺たちは大した言葉も交わさないままに同じベッドで眠るんだ。そう思っていると、背中に暖かく柔らかな感触がした。

 何かと思い自分のみぞおちあたりを見ると、そこに白く細い腕が回っている。は俺の背中にすがりつくように抱き着いていた。

 本当はから課題を受け取ったその瞬間に“今日はもう帰れ”という言葉を言ってを部屋から追い出そうとしていた。していたのに、それが出来なかった。そして今もこの腕を、この体温を振りほどくことが出来ないでいる。自分は一体どうしてしまったというのだろう。

「離せよ。ベッドに入れねぇだろ」

 口に出来たのはただそれだけの弱々しい声で、自分で自分が情けなくなる。は言う通りすぐに腕を離したため、俺は背を向けたままベッドに潜り込んだ。も同じようにベッドに入り、背後から衣擦れの音と息遣いが聞こえる。

 背を向けたままの俺に、は先ほどと同じように腕を回して身を寄せた。腹の真ん中あたりにの指がかすかに触れ、胃が締め付けられるような感覚がする。それでも背中に感じる暖かく柔らかな感触が心地よく、少しずつ睡魔が忍び寄ってきた。

「ネイサン」

 眠りに落ちそうだった意識が、に名を呼ばれたことによって引き上げられる。しかし俺は返事をすることなく狸寝入りを決め込むことにした。コイツの無駄話に付き合うのは、またネイサン・プレスコットという自分を乱されそうで嫌な予感しかしないし、大体俺はもう眠りたい。だって眠るためにここに来ているのだろう。それなのに。

「ねぇ、どうしてネイサンは私のことをあんなに見るの?」

 狸寝入りを決め込んだ瞬間、予想もしていなかった質問が飛んできて思わず声をあげそうになる。しかしいま俺は“眠っている設定”だ。動揺したのは心だけで、体も動いてはいないし呼吸も乱れてはいない。

 「どうして私のことをあんなに見るの?」という質問をするということは、俺の視線には気付いていたということ。やはりコイツは気付いた上で気付かないフリをしていたんだ。予想していたとは言え、なんだかの思う様に踊らされている気がして腹が立ってくる。

 寝たふりしている俺が返事をせずにいるとはそれを信じたらしく、フゥと軽く溜息をついた。

「ネイサンはさ、私のこと処女だと思ってるでしょ」

 思わず「は?」という声が漏れそうになるも堪える。いきなり何を言い出すんだコイツは、と心の中で呟きながら俺は寝たふりを続けた。は俺が本当に眠っていると信じている。恐らくこれはにとって“独り言”なんだろう。熱い吐息と声の振動が背中から強く伝わってきて、妙に緊張してきた。

「実は私は処女じゃないんだよね。厳密に言えば」

 が続けて言った言葉の意図が俺には理解出来なかった。厳密に言えば?どういうことだ?疑問が浮かび上がるがそれを声にすることは出来ず、俺は一定のリズムで呼吸だけを続ける。

「ネイサンとしたのが人生で二回目。血はちょっと出ちゃったみたいだけど痛くはなかった。でもそんなに気持ちよくもなかったかな」

 「人生で二回目」。本当かどうかは分からないがその言葉は意外だった。は性格にこそ難がありそうなものの、あのレイチェルに次ぐぐらいの見た目をしている。学校内はともかく、外に出れば男が放っておかないだろう。

 そして同時に「そんなに気持ちよくもなかった」という言葉に引っかかった。人生で二回目のセックスが気持ちよかったという人間はそこまで多くはないかもしれない。それは分かっていても、まるで“ネイサンがヘタクソだったから気持ちよくなかった”と言われているような気分になり、被害妄想と分かりつつも腹が立ってくる。

 寝たふりをやめて言い返してやろうかと思った瞬間、寝ぼけたような弱々しい声で、が呟いた。

「でもね、なんだかすごく満たされたような気持ちになったんだ。セックスって、いいもんだね」

 次の瞬間、俺の腹に回されていた腕の力が緩まっていき、背後から小さな寝息が聞こえてくる。どうやら寝たふりをしていた俺よりも先に、が眠りに落ちたようだった。

 やっぱりこの女はクソだ。ブラックウェルの連中にマリファナを売りさばいていたという事実はあったものの、あっさりと俺の“奴隷”に成り下がった。文句ひとつ口にせず俺の命令を聞いて提出物の課題や宿題をこなし、人生で二回目のセックスを俺に捧げた。ここまで聞けば従順な奴だと思ってもおかしくない。

 でもは、俺を「意外と子供だ」と嘲り、「今日はしないのか」と煽り、俺の視線を無視し、俺と一切関りのない優等生を演じ、俺の心をひたすらにかき乱している。コイツはクソだ。この女はクソだ。

 こんな気持ちのまま眠れるわけないだろ、そう思いつつも背中越しに聞こえるの心音がひどく心地よく、以前姉に勧められたクジラの歌を思い出す。

 頭の中に流れるクジラの歌と、それに絡みつくようなの心音を聞いていると、俺もいつのまにか眠りに落ちていた。