焼きつく記憶色 - 3

「そういやお前、とはどうなったんだよ」

 授業と授業の合間、騒がしい教室内での名が聞こえた。俺は椅子に浅く座りスマートフォンでSNSを眺めていたが、無意味な数字と承認欲求を満たすための幸せ自慢で溢れ返るタイムラインは退屈で、俺の耳が“余計な話”を捕らえてしまったのは仕方がないのかもしれない。それがの話だったからとか、そんなんじゃない。

 声のした方向をちらりと見ると、二人の男が向かい合って話をしていた。恐らくは同じクラスなのだろうが顔に見覚えはないし名前も思い出せない。俺の人生には関係のないどうでもいい“モブ”というやつだ。向かい合って無駄に大きな声での話をしている。しかしその“”は俺の知っている“”とは限らない。この学校に居る同姓同名の人間の話の可能性だってある。

「いやー、アイツめちゃくちゃガード固いぜ。つか全然目ェ合わないし。ありゃ男も寄り付かねぇわけだな。ぜってぇ処女」

 もう片方の男の言葉で俺の考えは完全に消えた。ガードが固い、目が合わない、男が寄り付かない。その条件でという名なのならば、それはもう俺の知っているで決定的だ。

 そして俺は心の中でその冴えない男に“処女じゃねぇよ、バーカ”と悪態をついた。先日が独り言のつもりで言ったのであろう「ネイサンとしたのが人生で二回目」という言葉が嘘だったとしても、少なくとも俺と一回セックスしたあいつは処女ではない。

 無意識に鼻で長い溜息をついた。それはまるで人が優越感を覚えた時にする仕草に似ていてハッとする。

 俺はいま何を考えた?いまの話をしている男二人組はどちらかがを狙っているように思える。そんなと俺は関係を持った。誰にも言えないとは言え、一度はセックスをした。俺は優越感を覚えた?あの冴えない男どもに?俺はとヤッちまったんだぜ、と?

「でもアイツ相当暗いよな。誰とも話さねぇし、顔もカラダも良いのにもったいねー」

 男の声が俺の思考を引き裂く。そちらに目線を送り軽く睨むが、男たちは俺のことには気づいていないようで、楽しそうに談笑を続けた。

「わかるわー。頼めば一回ぐらいはヤらせてくれんじゃね?性格ヤバすぎて付き合うのは勘弁だけど。コミュ障かよって」

 ギャハハ、という下品な笑い声が聞こえて、何とも言えない熱のようなものが頭に上ってくるのが分かる。俺は椅子から立ち上がり大股でその男たちに近づくと、どちらがどちらかも分からないまま、とりあえず右に居た男を拳で思いきり殴った。そこまで大柄ではない体は後ろに飛んで机に突っ込む。

「さっきっからうるせぇんだよテメェ!いきがってんじゃねぇぞ!」

 教室に響き渡るぐらいの大声が出ていた。左に居た男は何が起こったのか分からず、俺と吹っ飛んだままぴくりとも動かない友人を交互に見る。その目線と表情が更にイラつき、俺は困惑する男の胸倉を掴んでそいつにもパンチを食らわせた。教室に居た奴らは全員ただその光景を眺めているだけで、声を上げる人間は誰一人いなかった。

 自分がおかしいという自覚はあった。あの男の「ぜってぇ処女」だの「顔もカラダも良い」だの「頼めば一回ぐらいヤれる」だの、好き勝手な言葉たちが何度も何度も頭の中に響き渡る。腹が立って仕方がなかった。何故こんなにイラつくのか。何故ここまで怒りがおさえられないのか。何故こんな気持ちになるのか。それが自分では理解できずに、そのせいで苛立ちが増す気がする。

 俺はネイサン・プレスコットだ。この学校を、この街を牛耳っているプレスコット家の長男。そんな俺を誰も咎めることも裁くことも出来やしない。案の定、先ほどの教室内での騒ぎはもみ消され、俺は校長に小言を言われるだけで済んだ。相手の奴らがどうなったかは知らないしどうでもいい。

 騒ぎの後の授業は受けず、明日まで寮に待機しろと言われたため俺は自室に戻った。同じ階の奴らは全員が授業で校舎に居るため、寮の中は静まり返っている。俺は自室に入るとドアを開けたままにし、ベッドにどかりと座り込んで頭を抱えた。

 ムカつく、ムカつく、ムカつく。まるで中学生の時のような、ただ苛立ちの感情に心を支配された。行き場のない思いをぶつけるように枕を思いきり殴ると埃が舞い、部屋にある僅かな光に照らされてキラキラと光る。それをなんとなく目で追っていると、開けっ放しにしていたドアから見える廊下に一人の人物の姿が見えた。だった。

「なにしてるの、ネイサン」

 はそう呟いて、許可もなく俺の部屋に入り静かにドアを閉める。「なにしてるの」なんてこっちの台詞だろうと思いつつも俺は何も言えなかった。先程から脳内を埋め尽くす怒りと、あの男たちの言葉と、のこと。それを考えることと同時に自分の感情と向き合うことで精一杯なのに、何故こんな時に本人が目の前に現れてしまうのか。

「なんでテメェがここにいる。俺は呼んでねぇぞ。帰れ」

 顔を上げずに目を伏せたまま吐き捨てた。なんとなくの顔が見れず、ただ自分の膝だけを見つめていたが、気が付くとは俺と目線を合わせるようにしゃがみこみ、顔を覗き込んでいた。

「ひどい喧嘩したって聞いたから」

 の言葉にフン、と鼻を鳴らす。誰から何を聞いたか知らないが、一発殴ってやっただけだし騒ぎもすぐに収まった。あんなのは喧嘩のうちにも入らない。

 ふと、自分の頬に何かの感触がした。それはの手の平で、驚き目線を上げると大きな瞳と目が合う。は穴が空きそうなほどに俺の顔を見つめていた。目をそらそうにも、そらせなかった。

「どれだけ問題起こしたって、プレスコット家のあなたはどうせ処分なんかされないんだろうけど」

 プレスコット家。の口からその単語が出た瞬間、何かが破裂したかのような感覚に襲われた。俺はの胸倉を掴んで体を持ち上げると、背後にあるベッドに引き倒し威嚇するように顔を近づけて叫ぶ。

「偉そうに説教でもするつもりか!?テメェは俺の親でも教師でもねぇだろクソ女!」

 の首を掴み、強く押さえつけると苦しそうな表情で俺を睨んだ。その顔に何故か酷く欲情し、首元に噛みつきつつ服の裾から中に手を差し込む。手の平に触れた肌が溶けてしまいそうなほどに熱くて、それがさらに俺を駆り立てる。

 こいつのせいだ。俺があの男たちを殴ってしまったのも、自分でも理解できない行動を取ってしまっているのも、こんな気持ちになっているのも、全部、全部こいつのせいだ、のせいなんだ。

「ちょっとネイサン、待ってよ」

 吐息交じりにが声を上げ、抵抗するように腕を動かした。俺は手の平での口元を塞ぐと、先ほどと同じように顔を近づけ威嚇し、唸るような声で言った。

「お前は俺の奴隷だ。ご主人様の言うことは絶対だろ」

「それは分かってる。でも……」

「分かってんなら黙れ。テメェは俺の下で俺だけ見とけよ」

 まるで憂さ晴らしの性行為。そう捕らえられてもおかしくないだろう。少なくともはそう思ったに違いない。でも違う。本当はこんなことがしたいわけでも、こんなことが言いたいわけでもなかった。

 「俺の下で俺だけ見とけ」。この言葉はきっと、“俺を必要として欲しい”という気持ちがこもっていた。ただ、“こもっていただけ”。俺が本当に言いたかった言葉は口から出ることはなく、心の奥底で泡のように消えた。


 その後のことはもうあまり記憶にない。ただ何度を抱いても俺の気持ちは晴れなかった。
 ひたすらに腹が立って仕方がなかった。あの男どもは本当のを知らずに処女だのコミュ障だの好き勝手言っていた。それがムカついて仕方がなかった。本当ののことを誰も知らない。誰も見ていない。それを自分に重ねてしまって、腹が立ったのかもしれない。本当の俺“たち”のことなんか、本当の俺のことなんか、誰も見ていないんだと。

 なんとも言えないこんな不快な気分を晴らすには、やはりクスリとパーティしかない。次回のボルテックス・クラブのパーティがあと数日後に控えている。確か今度のパーティにはあのケイト・マーシュも参加するという話を小耳にはさんだ。

 ケイト・マーシュ、ボルテックス・クラブ、パーティ……。ジェファソンの提案を実行するには、この日しかないのかもしれない。連絡用に貰った使い捨てのスマートフォンはソファの裏に隠してある。あれでフランクに連絡を取り、パーティの日までにクスリを調達しよう。

 このよく分からない気持ちも、よく分からない怒りも、全てを忘れてしまいたい。ここは俺の庭だ。何でも思い通りになる。金もクスリも人間だってそうだ。あんな女が居なくても俺は夜眠ることだって、きっと容易いに違いないんだ。


 次の日からとは顔を合わせず、課題をやれと命令することも俺の部屋に来るように言うこともしていない。俺たちが奴隷契約を交わす以前の関係に戻っただけで、どうということはないだろう。

 そう、どうということはないはずだった。それなのに俺の気持ちは落ち着くどころかどんどんと荒んでいくのが自分でも良く分かった。内側から棘が張り出して体を突き破っていくような感覚。苦しくて、もどかしくて、いら立って仕方がなかった。

 負の感情の憂さ晴らしをするように、俺は数日前に行われたボルテックス・クラブのパーティであのケイト・マーシュに薬を盛った。意識が混濁したケイトを暗室まで運ぶようにとのジェファソンの命令だったが、その時の俺は最早暗室のことなどどうでもよくなっていた。

 ケイトを暗室に運ぶと、ジェファソンは嬉々として写真を撮っていたが、俺はレイチェルが死んでから、いや、この俺がレイチェルを殺してしまったあの時からこの暗室で行われる“撮影会”に何の感情も見出せなくなった。高揚感、憧れ、怒り、喜び、悲しみ、何一つ胸に湧いてこない。

 “ネイサン、僕たち二人なら、素晴らしい作品を作れる”

 いつだったかジェファソンが俺に言ったことがある。その言葉を初めて聞いた時は経験したことのない感情が胸に湧きあがったのを今でも覚えている。この人は俺を必要としている。この人は俺が欲しいものをくれる。そう信じてやまなかった。少なくとも、“その時は”。

 そして今日。俺が薬を盛り暗室まで運んだケイト・マーシュが、自殺を図った。

 その日は雨が降っていて空はどんよりと暗く重い色だった。空から降ってくる水滴たちがまるでスローモーションになったように見えたのは、目の前に広がっている状況に絶望したからなのかもしれない。ケイトは寮の屋上から飛び降り、自らを地面に叩きつけて殺そうとしていた。死のうとしていた。

 屋上に居るケイトを救ったのはマックスだった。以前アイツに銃の存在を校長に告げ口されたことがあり、またあの女かと思いつつも心の何処かでホッとしてしまった自分が居たことに嫌悪する。

 マックスは俺が女子トイレで銃を持っていた時のことを公に出来なかった腹いせとでも言うように、校長、ジェファソン、デイビッドの目の前で俺を責め、俺はめでたく停学処分となった。

 虚勢を張り周りの人間を脅すような態度を取ったが、内心は落ち着かず気持ちは真っ二つに分かれていた。“ケイトが自殺を図ったのは俺のせい”“ケイトが死にかけたのは俺のせい”と思う自分と“俺は誰かを傷付けるつもりなんかなかった”“俺のせいじゃない”と思う自分。冷静を装ったつもりだったが、ジェファソン辺りには動揺を見抜かれていたかもしれない。

 俺はレイチェルもケイトも、誰かを傷つけるつもりなんかなかった。薬を盛って永遠に眠らせてしまうことも、今持っている銃で誰かを撃つことも、何もかもするつもりなんかなかった。それでもケイトは俺の行動で“傷”付いた。どうしてこんなことになってしまったんだろう。何故俺ばかりがこんな目に合う。

 考えることが億劫になり、熱いシャワーでも浴びて寝てしまおうと考えた。どうせ停学処分になったのだし、次の日のことやこの先のことなんかしばらくは何も考えなくても良い。いつもと同じように眠れない夜になろうとも、そんなことは最早どうでもいい。

 校長室から寮に戻ると、自室に向かい迷いなくドアを開けた。目の前には薄暗い“俺の城”が広がっていて、広くもなければ柔らかくもないベッドにそのまま飛び込んで沈んでしまえばいい。そう思っていたのに、そのベッドに見慣れた人物が腰掛けていた。覚えのある光景。だった。

「……なにしてる」

 まるで独り言のようだった俺の言葉をは無表情で聞いていた。俺を心配しているわけでも、哀れんでいるわけでもないその表情に目を奪われる。

「別に」

 は一言だけそう言うと、まっすぐに俺だけを見つめた。

 まるで吸い込まれるようにの元へ一歩、二歩とゆっくり近づく。広くない部屋ではあっという間にたどり着き、俺はベッドに腰掛けたままのと目線を合わせるようにしゃがみ、床に両ひざをついた。目の前にある薄暗い視界に小さな膝があり、それを見ながらどこか安堵したような気持ちになった自分が居た。

 この気持ちには覚えがある。それも最近。いやつい先ほどだ。マックスがケイトの自殺を止めた時も同じような気持ちになった。心の何処かでホッと息をつき、安心したような気持ち。

 こんな風に思いたくなかった。マックスに対してもに対してもこんな気持ちになんかなりたくなかった。まるで幼い頃、眠れない俺に母親がホットミルクを作って飲ませてくれた時のような、なにも考えずに眠りに落ちれるような、こんな気持ちを感じたくなんかなかった。この女に。

 目の奥が熱くなり視界が歪んでくるのが分かった。重力に負けた涙はあっさりと頬を伝い、の膝の上にぽたりと一粒落ちる。それに気が付いたのかは俺の頬に触れ、指の腹で涙を拭った後、優しく髪を撫でた。

「ネイサン」

 が俺の名を呼ぶ。

 ああ、俺もまだ涙を流すことが出来たのか、というどこか他人事のような気持ちになる。この目から涙を流すことが出来るなんて思いもしなかった。そしてこんな俺を何も言わずに見守り、涙を拭い、慰めてくれる人間が居るなんて、夢にも思わなかった。

 にとって俺は何なのだろう。俺にとっては何なのだろう。はじめこそ俺はコイツを私利私欲のために利用し、飽きたり役に立たなくなってきたら捨ててしまおうと考えていた。それなのに、もはや俺たちには奴隷と主という言葉が適切ではない気がした。

 顔を上げ、腕を伸ばした。の後頭部辺りに手を差し込み自分の方へ引き寄せると、半ば無理矢理に口唇を塞ぐ。少し強引な行為のように思えたが、は抵抗することなく俺に体を委ねた。

 そういえば、こいつとはセックスも一緒のベッドで眠ることもしたが、キスだけはしたことがなかったとぼんやり思う。一度口唇を離し息を吸うと至近距離で目が合った。

 俺はベッドに片足を載せるとの肩に手を置き力を込めて押す。小さな体は簡単に倒れこみ、覆いかぶさるようにしながら再びキスをした。柔らかな口唇を割るように舌を潜り込ませると、それに応えるようにがほんの少しだけ口を開き、舌を絡ませてくる。

「ネイサン」

 口唇の隙間からが俺の名を呼ぶ。キスを止めて顔を離し目を合わせると、は俺の両頬に触れ、そこを優しく撫でた。

「ネイサン。もう私、あなたの奴隷で居たくない。あなたと対等で居たい」

 ドクリと心臓が大きく鳴る。「あなたと対等で居たい」というの言葉に思わずフンと鼻を鳴らし、笑った。何をいまさら言っているんだろう。こうして慰めている時点で俺とお前は対等なんじゃないのか。

「望みどおりにしてやるよ、クソ女」

 それだけを吐き捨て、俺はベッドから上半身を起こすとの胸倉を掴み強く引く。軽い体はあっさりと持ち上がり、俺は顔を近づけてまるで威嚇するようにを睨みつけた。

「今日で奴隷契約はお終いにしてやる。金輪際、俺に近づくんじゃねぇぞ」

 俺はベッドから立ち上がりを見下ろす。驚いたような表情でこちらを見つめるその瞳に妙な愛おしさを感じた。

 そうか、これが“愛おしい”という感情なのだなと改めて思う。涙を流す行為もそうだが、人を愛おしいと思う感情もまだ自分の中にあったのかと少し感心した。すべてコイツ、が俺の中から引きずり出した物だ。

 愛おしさと自己嫌悪が混ざり合った感情が胸に溢れ、俺はこれ見よがしに大きな舌打ちをする。

「はやく帰れよ」

 そう言うと、の眉が歪み表情が困惑した物に変わる。俺はの腕を強く掴みその場に立たせると、ドアまで引っ張っていきその体を部屋から放り出した。はバランスを崩し倒れこみそうになりながらも、ふらついた足でなんとか立ち、俺を見つめる。

「ちょっと待ってよネイサン。どういう……」

「うるせぇ。もうお前にはうんざりだ。二度と俺に関わるんじゃねぇ。失せろ」

 わざとらしく大きな音を立ててドアを閉める。が最後にどんな顔でこちらを見ていたのか確認する勇気が俺にはなく、ただ「ネイサン」という、俺の名を呼ぶの声だけが聞こえた。

 俺が主で、が奴隷。その関係も今日で終わりだ。課題をやらせることも、洗濯をさせることも、一緒に眠ることも、もうあの肌に触れることもない。すべては元通り。今までの何もない状態に戻っただけのことだ。何の問題がある。

 俺はまた人を壊したんだ。あの日レイチェルを壊してしまったように、ケイトも壊した。次は誰を壊してしまうんだろう。クロエか?マックスか?ビクトリアか?それとも、か?そんなことはしたくない。もう俺は誰も傷付けたくはない。誰も壊さない。しかしそんな俺の思いをジェファソンは理解などするだろうか。

 ドアの向こう側にあった人の気配が消えたのを確認し、俺は体をこすりつけるようにしながらその場にしゃがみこむ。なんだか頭が痛い。もう何もかもが億劫ですべてを投げ出してしまいたい。ひどく疲れたような気がするのに、きっといまベッドに入ったところで眠れはしないのだろう。何も考えずにただ眠りにつく。そんなことすらも今の俺には許されない。