焼きつく記憶色 - 4

 ブラックウェルを停学処分になった俺に居場所なんかなかった。いや、元々このクソみたいな世界に俺の居場所なんかなかったのかもしれない。

 授業に出ることもない俺は教室に入ることも許されないし、ダイナーやバーで時間を潰そうにも親父が差し向けた警官に尾行され見張られていることは自分でも分かっている。そんな状況で息抜きなど出来るはずもなく、結局は自分の部屋が一番マシなのではと考えるが、もしかしたらが居るかもしれない。そう考えると何故か自分の部屋に戻るのが億劫だった。

 しかしそんな心配は無用だと言わんばかりに、あれ以来の姿は俺の部屋どころか校内ですら見かけてはいない。丁度良い。の顔など見たくないし、これ以上俺という人間をかき乱されてたまるかという気持ちがある反面、誰も居ない部屋を見るたびに心の何処かでに会いたいという気持ちを微かに感じるような気もする。理解できない感情を覚えるたびに自分を自分で殴りたい気持ちになった。

 ある日、何処へ行こうにも相変わらず親父の差し向けた警官は金魚の糞かのように俺の後をつけてきて、そんな奴らの目から逃げるように寮に戻った時だった。階段を上りたった一つしかない男子寮の出入り口のドアを開けると、すぐ目の前にクロエ・プライスと俺を停学に追い込んだマックス・コールフィールドが居た。

 目が合うなりお互いに体の動きが止まる。俺の頭の中は“何故こいつらがこの男子寮に居るのか?”ということだったが、クロエとマックスの顔はどう見ても“しまった”と言いたげで、手には見覚えがあるような何かが握られているようにも見える。

「俺の寮でなにやってる!コソコソかぎまわりやがって!」

 声量も何も考えられず思わずそう叫ぶと、大股で二人に近づいた。こいつらがこの男子寮に居る理由などひとつしかない。きっと俺の部屋を漁りに来たか、さらに俺を追い詰めるような情報を探しに来たのだろう。

「ちょっと、落ち着いてよ」

 マックスがそう言うが落ち着いてなどいられない。俺の私物を持ち出したりしているならばそれを取り返すべきだし、何かしらの情報を掴んだのならただで帰すわけにはいかない。

 マックスに掴みかかろうとした時、クロエに力を込めて押され阻止される。俺は暴言を吐きながらクロエの体を押し返そうとした。

 このマックスという女は本当にクソだ。大人しい顔をしているくせにまるで蠅のように周囲を嗅ぎまわり、俺を停学処分にした挙句、男子寮に潜り込んで今度は何をしようというのか。マックスといいといい、どうして俺をかき乱そうとするのか。どうして本来の俺を暴こうとするのか。

 この時俺は、自分で自分が嫌で仕方がなかった。こんな時にまで、いや、いつだってのことを考えてしまう自分に嫌悪という感情しか浮かばない。自分から突き放したくせに顔を見たいなどと考えてしまう。あいつが傍にいないと呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、息苦しくてたまらなくなる。

 頭の中に浮かぶの姿と自己嫌悪の感情をかき消すかのように、マックスに手を伸ばしたその時だった。後ろから人影が飛び出してきて強い力で押され、俺はバランスを崩しよろめく。人影の正体はウォーレン・グラハム。以前に俺が駐車場でボコボコにしてやった男だった。

「マックス!さがってろ」

 ウォーレンはそう言うとマックスを守るように前に出て、俺を睨みつける。

 ただのオタクが惚れてる女に良いところを見せようと王子様気取りで格好をつけているその姿に、俺はますますいら立った。どいつもこいつも腹が立つ。俺は金も車も薬も権力も、誰もが羨むようなものを何もかも手にしているはずなのに、どうしてこんな気持ちになるのか。

 そこまで考えた所で何かに気が付く。いま目の前に立っているウォーレンに既視感があった。それは自分自身だ。

 以前、俺は教室内で二人の男を殴り吹っ飛ばした。そいつらはの話をしており、「ぜってぇ処女」だの「顔もカラダも良い」だの「頼めば一回ぐらいヤれる」だの、好き勝手な言葉を並べ立てていた。それを聞くと腹が立って仕方がなかった。その時は何故こんなにイラつくのか。何故ここまで怒りがおさえられないのか。何故こんな気持ちになるのか。自分には理解出来なかった。

 しかしそれが今になってなんとなく分かるような気がする。このウォーレンという男が俺の目の前に立ちふさがっているのは、あの時の俺と同じ気持ちだからなんじゃないか?“惚れてる女”をただ守りたいという気持ちなんじゃないか?

 “惚れてる女”。そんな気色の悪い単語が頭に浮かび、俺は頭を振って奥歯を噛みしめた。

「そこをどきやがれ!」

 そう叫び、威嚇するようにウォーレンに顔を近づけた時だった。奴の手が素早く俺の肩に伸び、強く掴まれると同時に強力な頭突きが飛んでくる。まるで目の前に星が飛んだかのような衝撃があり、思わず膝から力が抜けその場に倒れ込む。どうやら顔面から血が出たようだった。

 顔を抑えながら痛みに耐えていると、どうやらウォーレンも同じような衝撃があったようで額を抑えながら唸っていた。俺は血が上り、ただ目の前のこいつが憎いとしか考えられなくなる。

「てめえ……、そんなに死にたいのか!」

 ポケットに手を伸ばし、隠し持っていたハンドガンを取り出す。これは以前に女子トイレでクロエを脅したのと同じ物で、再び持ち歩くようになったのはとの契約を解除してすぐのことだ。

 また、まただ。また俺はのことを思い出した。のことを考えた。このハンドガンの銃口を自分に向けてやりたいと思いつつも堪え、目の前のウォーレンに向けたその時、素早い蹴りが顔面に飛んできてハンドガンと一緒に俺の体は床に叩きつけられる。負けてたまるかと思いすぐに立ち上がろうとするも、まるでとどめでも刺すかのように更なる蹴りが俺の腹を直撃した。

 抵抗しようにも同じような強い蹴りが腹めがけて飛んできて立ち上がることも出来ない。何度目か分からなくなった頃にいつの間にか蹴りは止んでいて、倒れ込む俺の横を奴らが通り過ぎ、男子寮から出ていこうとしている様子が見えた。

「お前も……お前も……全員死ね!」

 自分でも何を言っているのか分からないくらいの暴言が口から飛び出る。立ち上がり銃を拾い上げ一歩踏み出すと、頭突きされた顔面と散々蹴られた腹が鈍く痛んだ。

 マックスは振り返り、怯えたような表情で俺をずっと見つめている。俺は頭に浮かんできた適当な言葉を怒鳴り声にしてマックスに叫びながら、廊下の奥にある自室へと向かった。マックス以外の二人は早々に男子寮を出て行ったようだった。

「どいつもこいつも、クソが……!」

 盛大な独り言を呟きながら自分の部屋のドアに手をかけた時、思わずハッとする。

 ケイト・マーシュが自殺を図ったあの日。停学処分になった俺は何も考えられなくて、考えることすらもひたすらに億劫で、最早どうでもいいと真っすぐに自分の部屋に向かった。そんな腑抜けた俺を、アイツは部屋で待っていた。

 俺が呼び出したわけでもない。俺の事情なんか何も知るはずない。それなのにはただ黙って何も言わず何も聞かず、ただ頬に触れ涙を拭い髪を撫でてくれた。ただ俺のキスに応え、俺の名を呼んでくれた。

 腕を引きドアを開ける。目の前には見慣れた薄暗い自分の部屋が広がっており、ただよう細かな埃が僅かな光源で光っているのみ。

 素早く部屋に入り、大きな音と共に後ろ手でドアを閉めた。背中をつけ、そのまま体をこすりつけるようにして床に座り込む。顔に手を当てると先ほどの傷に触れてしまい、指先に僅かな血が付着した。





 その名を小さく呟く。怒りでも悲しみでもない言葉にし難い感情が胸を満たした。  あの日と同じようにがこの部屋に居てくれたら。頭突きされ血が滲んでいる俺の顔を見ても何も言わず何も聞かず、ただ俺を抱きしめてくれたら。自分から彼女を突き放したくせに、自分勝手にもそんな風に思ってしまった自分自身に吐き気がした。

 いま何時だろう。今夜のパーティまであとどのくらいの時間があるだろう。そう考えながらスマートフォンを取り出そうとした時にふと思い出す。そういえば今夜のパーティでまた誰かに薬を盛って拉致をする計画でもあるのかと思っていたが、ジェファソンからは何の連絡もない。

 しかし、それはそれで良いのかもしれないと思った。もうこれ以上誰かが壊れるのは見たくなかったし、自分が誰かを傷付けるのは嫌だった。そんな俺の思いをジェファソンは理解などするはずもないだろう。打ち明けなくても良いのならばそのほうがいい。

 考えたくもないようなことを色々と思い出し軽く舌打ちをした時、自分の部屋にはデジタルの時計しかないはずなのにどこからか秒針の音が聞こえてくる気がした。カチカチ、カチカチ。その幻聴にまるで追い詰められたような気分になる。

「クソ……」

 独り言を呟き、俺はそのまま部屋から出た。自分の部屋すらも居心地が悪いなんて馬鹿げてる。そう思いつつも何処か別の場所で時間を潰そうと、車に乗るために駐車場に向かった。

 顔の傷の手当どころか血すらも拭いていない俺の顔をすれ違う生徒たちが振り返って見てきたが、そんな奴らの視線なんかどうでも良かった。早くこの場から去りたい。その一心で歩き続ける。

 駐車場手前の階段を降り、車をどのあたりに止めたかという曖昧な記憶を辿りながら目線を走らせると、いくつかある停まっているものの中に見慣れない車両があった。目を凝らして良く見てみると運転席に座っている人物がジッとこちらを見ている。

 ああまたか、と心の中で呟く。あれは恐らく親父が俺を監視するために雇った警察官で、あの車両は恐らく覆面パトカーだ。ダイナーに居ようがバーに居ようが学校に居ようが、どこまででも俺を尾行し監視している暇人。今から俺が行く場所にもきっと着いてくるだろう。

 盛大に溜息をつきながら駐車場を再び見回した。すると中央辺りに自身の赤いSUVを発見し、近づこうと一歩踏み出した瞬間に気が付く。

 SUVの中の様子を窺うように運転席側の窓ガラスを覗き込んでいる人物が居り、一瞬心臓が大きく跳ねる。俺の車の様子を窺う奴が居たとしても今更何とも思わない。それなのに驚いてしまったのはその人物が見慣れた姿だったから。だ。が俺の車を覗き込んでいる。

 俺は駆け寄りたい気持ちを抑え、無意識に走り出そうとした脚にグッと力を込める。そしてその時にやっと気が付いた。俺は、恐らくに惚れてる。のことが好きなんだ。

 そう。俺は契約を解除し自ら彼女を突き放したのに、後悔をした。しかしその後悔に気付かないフリをしようとした。のことが好きだという自分が、彼女にそばに居て欲しいと考えてしまう腑抜けた自分が許せなかった。

 人を好きになったとしてもどうせ俺はまた壊してしまう。それこそレイチェルのように。俺はに惚れてなんかいない。好きなんかじゃない。そばに居て欲しいなんて微塵も思っちゃいない。そう思わなければならないのに、に駆け寄ってすぐそばで顔を見て声を聞いて、いつものように彼女を抱きしめて眠りに就きたいと思ってしまう。悔しくて苦しくて醜くて、そんな自分が嫌になる。

「ネイサン?」

 聞き慣れた声が俺の名を呼んだ。どうやらは俺の姿に気が付いたようで、小走りでこちらに近づいてくる様子が見える。俺は来た道を引き返そうと背を向け、先ほど降りてきたばかりの階段を登ろうと足をかけたが、が俺の腕を掴み、それを止めた。

 は何も言わず黙ったままだった。女の力なんてたかが知れているし、掴まれた腕を振り払うなんて造作もない。そのはずなのに、俺はの手を振り払うことが出来なかった。

 数秒の沈黙が流れ、耐えきれなくなった俺は振り返りの顔を睨みつける。しかしは俺の表情よりも怪我の方に意識を持っていかれたようで、目を見開き驚いたような顔をした。

「さっき男子寮でひどいケンカがあったって聞いたんだけど、やっぱりあなただったんだね」

 その言葉に舌打ちしたい気持ちを抑え、奥歯を軽く噛みしめた。

 先ほどの俺とウォーレンのケンカはそこまで大きな騒ぎではなかったと考えていたが、真昼間の時間帯で、その上場所は男子寮の出入り口前だ。他の生徒に目撃されていない方がおかしいだろうとは思うが、何故、どうやっての耳に入ったのか。

「だからなんだよ。離せ」

 唸るように言いながら掴まれている腕に力を込めて引くと、はひるんだように手を離し、ほんの少しだけ悲しそうな顔をした。それに気付かないフリをしながら自分の車の元へ行こうとその場から歩き出すと、は「どこ行くの」などと言いながら俺の後を着いてくる。

「ちょっと、ネイサンってば」

「うるせぇ。テメェには関係ねぇ。失せろ」

 出来るだけ冷静を装い、何の感情ものせないようにしながら呟く。自身の車に辿り着き運転席のドアを開けようと手を伸ばした時、それを止めるようにが再び俺の腕を掴んだ。

「ネイサン。あなたがどこに行こうと私に関係ないのは分かってる。でもその前にせめて傷の手当てをしないと」

 は俺の顔を覗き込み、目を見つめながら言った。思わず“触れたい”という衝動に駆られ下口唇を噛む。

 この女は何なんだ。突き放しても俺の心に居座り続け、突き放しても俺の前に現れ、突き放しても俺の心を揺さぶり続ける。この女は何なんだ。どうして俺はこんな女に惚れちまったんだ。

 その時、ふと気が付いた俺は息をのむようにハッとする。この駐車場には俺を監視している警察官が居るということを今の今まで忘れていた。恐らく言い争う俺たちの姿も見ているに違いない。俺自身は監視されていることに嫌気を感じつつも若干慣れてきていたため最早どうでもいいが、と一緒に居るところを見られたくないし、親父に知られたくない。

 奥歯を噛みしめ腕に力をこめるも、は俺の腕を掴む手を離す気はないようだった。威嚇するように睨みつけたとしても、先ほどと変わらない真剣で、それでいて何処か悲しそうな表情で俺を見つめる。

「離せよ……」

 情けなくなるほどの微かな呟きはの耳には届かなかっただろう。この手を離して俺をお前から解放して欲しい。そう思うのに心のどこかで、ずっと手を取ったまま俺を離さないで欲しいと矛盾めいたことを思ってしまう。

 俺は後部座席のドアを開くと、の腰の辺りに手を回して強く押し、その体を車内に無理矢理押し込んだ。

「え、ちょっと、なに?」

 はそう言いながら後部座席のシートに両手と膝をついたが、その姿がまるで犬のように見え、滑稽でいて卑猥にも見える。

 俺は何も答えず大きな音を立ててドアを閉めると、今度は運転席のドアをあけて乗り込み間髪入れずにエンジンをかけ、すぐさまその場から走り出した。バックミラーを確認すると、俺を監視していたのだろう覆面パトカーも同じように走り出し後をついてきているのが分かる。

 いい度胸じゃねぇかクソが、そう思いアクセルを強く踏みスピードを上げた。前を走る車を何台も追い越していくと、バックミラーから見える覆面パトカーが次第に小さくなっていく。このまま撒いてやる。そう考えながら再び前の車を追い越そうとハンドルを切った時、後部座席から大きな声が聞こえた。

「ちょっとネイサン!スピード出しすぎ!」

 ほとんど叫びに近かったその声を無視し、俺は真っすぐ前の道だけを見つめた。素早く通り過ぎていく景色と他の車両たちをまるで幻覚かのように感じていると、は腰を上げ運転席の俺の方へ顔を突き出して再び叫ぶ。

「ねぇなんなの?停めてよ!停めてってば!」

「うるせぇ!テメェが悪いんだよ!黙ってろ!俺に命令するな!」

 耳元で大きな声を出され、冷静で居ようと考えていた自分が打ち砕かれる。叫びに叫びで返すとは一瞬ひるんだように口を閉じたが、再び俺に向かって大きな声を出した。

「停めてくれないと私、飛び降りるから!」

 のその言葉はハッタリだと分かっていた。分かっていたはずなのに心が揺らぎ、アクセルを踏んでいた足が少しだけ緩む。悔しさを感じ大きな舌打ちをすると、俺は苛立ちをぶつけるようにハンドルを軽く叩いた。

 後を尾けてくる車両の姿がいつの間にか消えていて、覆面パトカーを撒くことは成功したようだった。スピードを緩めながら少しだけ走り、狭く人の気配のない路地に入って車を停めるとすぐさまエンジンを切る。後部座席のは先ほどの勢いが嘘かのように静かだった。

「傷の手当てをするから、こっちに来てよ」

 弱々しい声でが言う。バックミラー越しに顔を見ると目が合った。

「なんでだよ。お前が助手席にくればいいだろ」

「こっちのほうが広くてやりやすいでしょ。いいから来てよ」

 は不機嫌そうに眉間に皺を寄せると、“早くここに来い”とでも言いたげに自分が腰を下ろしているシートを音を立てて叩く。俺は溜息をつくと後部座席へ移動するために運転席から降りたが、その時、周りの景色を見て思わず息をのんだ。

 あの覆面パトカーを撒くために夢中で走ってきたため気付かなかったが、無意識に自分の知っている道を走ってきてしまったのか、そこは“暗室”の近くだった。

 この辺りは人が少なく誰かに目撃されることはないだろうし、警察のような目立つ存在がこちらに近付こうものならすぐに分かるため身を隠すには良い場所かもしれない。しかしを連れてこない方が良いというのは明らかだ。

 恐らくは俺の傷の手当てが済むまではここから動かないだろう。さっさと済ませてを寮に帰そう。そう考えながら俺は後部座席のドアを開き中に乗り込んだ。のすぐ隣に腰を下ろし、目を合わせないようにしながらも顔をそちらに向ける。

「なんでケンカなんかしたの?」

 第一声にその質問が飛んできたが、答える気はなかった。はポケットにでも入れていたのか何処からかティッシュを取り出し、俺の顔の血を拭く。しかし出血はとっくに固まっていたため、乾いたティッシュなどでは上手く拭きとれないようだった。

「ここまで猛スピードで走ってきた理由は?」

 先ほどの質問に無視を決め込んでいると次の質問が飛んできたが、俺は口を結び何も答えない。は乾いた血を拭くことを諦めたのか、今度はハンカチのような布を取り出して傷口そのものに優しく触れた。微かな痛みが走り思わず眉が動いてしまう。

「私のこと突き放した理由も、教えてくれないの?」

 どの質問にも答える気がない俺に気が付いたのか、は大きなため息交じりに呟いた。思わずの方へ目線を向けてしまったが、目があった途端に後悔し、俺はすぐに目線をそらす。

「“お前には関係ない”とか“俺に命令するな”とかはナシだから。もう奴隷でもなんでもないんだから、教えてくれたっていいでしょ」

 何か柔らかいものが自分の頬に触れたのが分かった。それはの手のひらで、目をそらしていた俺の顔を優しく持ち上げ、目を見つめる。の表情は決して優しいものではなく、先ほどと変わらない少し悲し気なものに見えた。

 口唇に視線が吸われる。キスがしたいという衝動に駆られるも、自分の口唇も、指先すらも彼女に触れること自体を躊躇う。俺は自分の膝の上で拳を握りしめた。

「俺に関わるな。もう、……ほっとけよ」

 言い慣れているはずの暴言を口にするのがこんなにも苦しいのは生まれて初めてだった。喉の奥が狭くなったかのように呼吸が上手く出来ず苦しくて涙が出そうになる。それを耐えるように下口唇を噛みしめても無駄な抵抗で、視界はどんどんと歪むばかり。

 その時だった。はゆっくりと、まるで腫れ物にでも触るように両手で俺の頬を包み、顔を近づけて触れるだけのキスをした。血液のにおいが、甘いような優しい香りでかき消される。

「ほっとけないから今ここにいるんじゃない」

 目を合わせながら至近距離で呟いたの声は微かに震えていた。

「ずっとあなたに会いたかった。だから今ここにいるのに、“俺に関わるな”なんて言わないでよ」

 自分の頬を涙が伝っていく感触がした。俺がの前で涙を流すのは二度目で、どうしてこんな不格好な姿ばかり見られてしまうのだろうと自己嫌悪する。

 いや、違う。きっと俺はこいつの前だと本当の自分を隠すことが出来なくなってしまうんだ。虚勢を張って周りを攻撃し、弱々しい本当の自分を隠して生きてきた。それがの前だと出来なくなる。不格好で情けない、本当の自分でしか居られなくなる。



 名を呼んでからの顔を見つめると、彼女も俺と同じように涙を流していた。濡れた頬に触れながらその顔を自分の方へ引き寄せると、そのまま噛みつくように口唇を塞ぐ。もそれに応えるように俺の首に触れ身を寄せた。

“俺も、ずっとお前に会いたかった”

 その言葉は口に出せなかった。とのキスに溺れることしか、俺には出来なかった。