焼きつく記憶色 - 5
薄っぺらい愛の言葉を甘く囁くだなんて俺の柄じゃないと分かっていたから、それを口にすることはしなかった。ただ頭の中は好きだとか会いたかったとか仕様もない言葉が溢れかえって、キスをすることだけに夢中になった。
服を脱がせてその肌に直接触れたい。そう思ってもそれを実行しなかったのは、とキスをして身を寄せ合ったというただそれだけで、抵抗できないほどの睡魔に襲われたからだった。ここ最近の俺はまともに眠れていなかったので恐らくはそのせいだろう。
まるで気でも失ったのではないかと思うほどの眠りの中で、俺は夢を見た。夢の中では建物の中にいるのに何故か雨が降っているという不可思議な世界で、俺との体は濡れていた。それでも寒いと感じなかったのは夢のせいなのか、はたまたが隣にいたせいなのかは分からない。
夢の中でも俺とはキスをしていて、何か言葉をかけられた気がしたが強い雨のせいで何と言っているのか聞き取れない。耳を傾けようとに顔を近づけた瞬間、強い風が吹き何もかもを吹き飛ばしていった。
言葉にならない大きな寝言を口にしながら目を開いた。視界にうつる車の天井はぼんやりと薄暗く、外が夜になっているということが分かる。車を停めてに傷の手当てをすると言われた後、いつのまにかぐっすりと眠ってしまったようだと気が付いた。
上手く働かない頭で車に備え付けられている時計を見ると、時刻は20時を少し過ぎたくらいだった。恐らく今頃はブラックウェルのプールでボルテックスクラブのパーティーが始まった頃だろう。先ほどまではそのパーティーには出るべきだと考えていたが、最早どうでも良い。今はただを抱きしめてこのまま眠っていたい。
そこまで考えた所でハッと気が付いた。自分の隣に居ると思っていたはずのの姿がない。身を乗り出し前の座席を覗き込んでみたものの、運転席にも助手席にもの姿はなかった。
一度車から降り周囲を見渡してみるも、どころか人の姿も見当たらない。それもそのはず。この辺りはプレスコット家が管理している土地が多く手つかずのまま無人になっている建物も多い。人が少ないということは人目が少ないということ。だからこそジェファソンはこの辺りに“暗室”を構えたんだ。
嫌な予感がした。妙な汗がこめかみのあたりから頬へ流れてくるのを感じ、唾を飲む。その嫌な予感は自分の気のせいだと思い込みたかったが、俺の目が何かを捉えてしまった。
それはすぐ近くにあったタイヤ痕。俺たちが乗ってきたSUVとは違う方向についており、明らかに真新しかった。先ほども考えたがこの辺りに人はほとんど居ないため、俺の車以外のタイヤ痕があること自体がおかしい。
まさか。そう思いながら自分の車に戻り後部座席を改めて見てみると、シートの下に何かが落ちているのが見える。屈んで顔を近づけてみるとそれは俺にとって見慣れた注射器で、恐る恐る腕を伸ばし手に取った。少なくとも俺は車の中で“これ”を使うようなことはしていない。それならばなぜ“これ”がこんな所に。
馬鹿な、ありえない。そんな言葉を何度も何度も頭の中で繰り返したのは現実逃避したかったからなんだろう。真新しいタイヤ痕。車内に落ちていた使用済み注射器。そしてこの場所。まさかは連れ去られた?ジェファソンに?そうとしか考えられないのに、俺はまだどこか信じられずにいた。
運転席に乗り込み急いでエンジンをかけると車を切り返した。ここから“暗室”までほとんど時間はかからない。ハンドルを握る手が震えたが車を停めるわけには行かなかった。
数分走ると“暗室”のある納屋に到着し、エンジンを切ってキーを取る心の余裕もないまま俺は車を飛び降りる。電気もなくほとんど真っ暗な納屋の奥へと進むと、いつも藁で隠されている地下室への入り口が丸見えになっていた。その上、南京錠も壊れ、外れているように見える。
階段を降り切った先にある扉をパスコードで解錠してすぐ、中から微かにクラシックの音が聴こえた。ぶつぶつと何か独り言を呟くジェファソンのものらしき声が聞こえ、俺は出入口近くにあるビニールのカーテンを手で払いのけながら奥に入り込む。
「ああ……、驚いた。誰かと思えば君か、ネイサン」
ジェファソンはそう言って俺を一瞥するとフンと鼻を鳴らす。その態度は「驚いた」という言葉とは正反対に見えた。ジェファソンの手にはダクトテープが握られており、俺が今まで見てきた奴の行動からすると、今から誰かを拘束するところなのだろうとすぐに理解できる。
恐る恐るジェファソンの足元を見ると、そこには虚ろな表情で白い床に横になっているの姿があった。焦点も定まらない目でどこかをぼんやりと見つめており、半開きの口を微かに動かしている。今までに見たことのないのその姿に、呼吸が止まったような感覚になった。
「なにしてる……?」
情けなく声が震えてしまったことを自覚した。ジェファソンは俺の問いかけが不思議だったようで、両手を広げながらおどけるような表情をする。
「いつも通りだよ。今から写真を撮るんだ。彼女のね」
ジェファソンはそう言いながら、ダクトテープの入り口を探すように表面を爪で擦る。
この後何がどうなるのかなんて今までに何度も見てきた光景だ。ジェファソンがやろうとしていることなど手に取るように分かる。まず手始めにダクトテープでの両手足を拘束し逃げられなくするのだろう。
とにかく呼吸をするのに必死で、頭の中がパニックだった。どうするべきかと思いつつも何の考えも浮かばず膝が震え出す。そんな俺の様子に気付いたのか、ジェファソンはまるで哀れむような目を向けため息をついた。
「まぁ、僕は彼女にそこまで興味はないんだが……。でもネイサン、君がこうして彼女を“ここ”の近くまでおびき寄せてくれたんだ。せっかくだから僕のコレクションにしてあげよう」
ジェファソンはそう言いながらこちらにゆっくりと近づき、俺の肩に優しく手を置いた。その行為はまるで親が子に“良くやった、頑張ったね”とねぎらいの言葉を掛ける時のように感じて吐き気を覚える。
違う、俺はおびき寄せてなんかいない。をジェファソンに差し出そうなんてこれっぽっちも思っちゃいない。そう強く思うのに声になって口から出ることはない。
「を……放せ」
代わりに出た言葉もひどく弱々しく、かすれていたため聞き取りづらかったかもしれない。それでも俺の目の前にいたジェファソンには届いていたようで、特に驚いたような表情はしなかったものの、奴の眉が微かに動いたのが分かった。
「ああ……、ネイサン、まったく君には困ったものだ……」
ジェファソンは俺の肩に置いていた手を下ろし、呆れたように鼻で長い溜息をつく。そしてジェファソンが手に持っていたダクトテープが床に落ちる音が聞こえたのと同時に、奴の両手が俺の首にかかった。
驚き、思わず言葉にならない声が漏れた。俺の首にかかっているジェファソンの両手が強く締まっていき、抵抗しようともがくと膝から力がぬけてその場に倒れ込む。すると俺の体の上へジェファソンは馬乗りになり、体重をかけ首が締め上げられていくのが分かった。
「ありがとう。今まで君は良くやってくれた。でもこれ以上、君の気まぐれに振り回されるのは沢山なんだ」
両手で俺の首を締めあげながらジェファソンは穏やかな表情を浮かべて言う。その声を聞き、言葉の意味を理解しようにも頭が働かず、ただ酸素を求めて暴れ、足を動かしたが、ジェファソンの体に押さえつけられた。
死にたくない。真っ先にそう思ったが、もうここでお終いなのかもしれないという諦めの気持ちも頭に浮かんでくる。折れそうなほどに締められる首、歪んでいく視界、どんどん顔が熱くなって、ああもう死ぬんだという現実が迫ってくる。
「なぁネイサン。君は随分とこのという生徒に思い入れがあるようだね。君の後にすぐ彼女も送ってあげよう。あの世で結ばれるなんてロマンチックじゃないか」
どこか楽しそうに話すジェファソンの声が微かに聞こえた。
。俺がこのまま殺されて、その後にも殺されるのか。ジェファソンに好きなように弄ばれ、“作品”にされ死んでいく。俺のせいで。俺のせいでは死ぬ。
その事実がただただ悲しくて涙が溢れた。恐怖からとか、首を絞められているせいだとかそんなんじゃない。ただ、悲しかった。俺のせいでが死ぬという残酷な現実が。に何も伝えないまま死んでいく自分自身が。
どこからか、今までの被害者たちが俺を責めている声が聞こえる気がする。
“いまさら罪の意識が芽生えたとでも?”
“好きな女の子が被害に合うから助けたいって?じゃあ私たちは?”
“私たちは壊れたのに、その子は助けるんだ”
“俺が、俺が、俺がって、随分むしの良い話ですこと”
頭のなかを回り続ける言葉たちがうっとおしくて仕方がない。うるせぇクソが黙ってろ。そんな風に思うも、今まで傷ついてきた人たちを罵倒する権利なんか自分にはないはずだ。それでも、それでも俺はに言わなきゃいけない、伝えなきゃいけない。
「おれ、も、ずっと……おまえ、に……」
“会いたかった”。強く圧迫され狭くなる喉の奥から、その言葉が出ることはなかった。自身の首に食い込んでいく指の感触と、遠のいていく意識を確かに感じながら、俺はと初めて会話をした時のことを思い出していた。
あの日の俺は置きっぱなしにしていた自分の資材と荷物を回収しようと美術室に向かった。その際に金と“ブツ”を持っていたに出くわしたのだった。
そういえば、あの時のはどうして俺に何の言い訳も反論もしなかったのだろう。何故あんなにも冷静で、まるで待ってましたと言わんばかりに「“誰にも言わないで”“何でもするから許してください”」と口にしたのだろう。
もしかしてアイツは俺をずっと待っていたんじゃないだろうか、なんて馬鹿げた自惚れが頭に思い浮かぶのは、たったいま俺が自分が死ぬだろうという状況に直面しているからなんだろう。
「ネイサン」
聞き覚えのあるの優しく、それでいて平坦な声が俺の名を呼ぶ。こんな状況にでもなると幻聴まで聞こえてくるのかと冷静に思っていると、すぐ後に何か硬いもの同士がぶつかるような鈍い音がした。
「ネイサン」
先ほどと同じ声が再び俺の名を呼んだ。ふと気が付くと首の圧迫が消えており、足りなくなった酸素を補おうともがくように呼吸をした。途中咳き込み嘔吐しそうになりながらも必死で息を整えると、目の前にの姿がある。幻覚かと思い何度も瞬きをしたが、の姿は霞んだり歪んだりせず、確かにそこに存在していた。
「ネイサン、逃げよう」
は弱々しい声でそう言いながら、体が上手く動かないのかおぼつかない足取りでこちらに近付く。手には大きく太い三脚が握られていたがそれをすぐに床に落とし、胸に手をあて苦しそうに息をした。俺のすぐ近くにはジェファソンが倒れ込んでおり、その時にやっと気が付く。
ジェファソンに薬を打たれ意識が朦朧としていたは、首を絞められ殺されそうになっている俺をずっと見ていたのだろう。動きが鈍っていたものの手足の拘束はされていなかったため、隙を見て立ち上がり近くにあった三脚でジェファソンを殴って気絶させたのだ。
「ネイサン、早く。こいつが目を覚ます前に」
は気分が悪いのか口元に手をあて、絞り出すような声でそう言った。俺は声を出さずに小さく頷いて返事をすると、力が入らない足でなんとかその場に立ち上がり、の手を取って“暗室”から逃げ出した。
外に停めていた俺の車はエンジンをかけたままだったため、が助手席に乗り込んだことを確認すると自分もすぐに運転席に乗り込みアクセルを踏む。
あまりにも必死になりすぎて納屋の外にある木の柵にボディを軽くぶつけてしまったが、今はそんなことを気にはしていられなかった。いつ目を覚ますかも分からないジェファソンは、俺やを取り逃がしたと知るや否やきっと探し出し追いかけてくるだろう。
不安と恐怖をかき消すように俺はあてもなく走った。それなりに遅い時間ではあるものの、道路も店もまだ電気がついており、どこもかしこも明るく感じる。俺たちを隠してくれるような暗闇が欲しいと思いながら、ただ人の気配のない方向へと車を走らせた。
途中、ふと助手席に座るに目をやると、薬の影響からかまだ気分が悪そうに表情を歪めており、手を握ったり開いたりを繰り返しながら苦しそうに呼吸をしている。
「おい」
思わず声をかけるも返答はなく、俺は海が良く見える人の気配の少ない海沿いに車を停めるとの顔を覗き込んだ。こんな時は例えば“大丈夫か?”だとか“しっかりしろ”だとか声をかけるのが普通なのだろうが、どの言葉も俺の口からは出てこない。
どうしようもなくなった俺は何も言わないままの手を握った。するとは弱々しくも手を握り返し、虚ろな目でこちらを見る。
「今日は随分、優しいんだね」
こんな状況でも皮肉めいたことを言うあたりがらしいと感じつつも、巻き込んでしまった自己嫌悪とどうすることも出来ない自分の不甲斐なさに舌打ちをする。
「ねぇ、私、ずっとネイサンに黙ってたことがあるの。聞いてくれる?」
は浅く呼吸をしながら途切れ途切れに言い、どこか諦めが感じられる表情をした。まるで“もうすぐ自分は死ぬから最期に思い残すことがないように”とでも言いたげな態度に怒りを感じる。そんなことになってたまるか。そう思うが相変わらず俺の口からは何の言葉も出てこず、俯き自分の膝を見つめた。
俺が何の反応も見せないことが特に気にならなかったのか、はそのまま続ける。
「私がマリファナを横流ししたのは、あなたに近づくためだったんだ。そうすればいつかあなたと接触できるって、分かってたから」
その言葉を聞きながら、俺は先ほどジェファソンに首を絞められながら感じていたことを思い出した。
と俺が“奴隷契約”を交わすことになったあの日。はどうして俺に何の言い訳も反論もしなかったのか。何故あんなにも冷静で、まるで待ってましたと言わんばかりに「“誰にも言わないで”“何でもするから許してください”」と口にしたのか。そして俺が“奴隷契約”を解除しても、何故はマリファナの横流しを再開することはなかったのか。
それがずっと不思議で、すっと心に引っ掛かっていた。先ほどもう自分は死ぬのだと感じた時、もしかしては俺をずっと待っていたんじゃないだろうか、なんて馬鹿げた自惚れが頭に思い浮かんだ。それは、思い違いなどではなかったんだ。
「あなたは私と同じだった。家にも学校にもどこにも居場所がなくて、本当の自分を隠して生きてきた。違う?」
先ほどよりもはっきりした口調でが言う。
そうだ。俺はただ居場所が欲しくて、誰かに認めてもらいたくて、誰かに必要とされたくて、でもそれはどんなにもがいても叶うことはなくて、ただひたすらに苦しかった。何かを求めて格好悪くもがく自分を誰にも悟られたくなくて、周囲を攻撃し虚勢を張って、本当の自分を隠し続けてきた。
そんな俺をコイツは、は、全部分かっていた。見透かされていたんだ。
ふと、自分の手が強く握り返されたような気がした。思わずの顔を見ると、穏やかな微笑みを浮かべて俺の顔を見ている。
「私はあなたの傷を舐めたかったんだよ。そして私の傷を舐めて欲しかった。私はもうネイサンがそばに居てくれなきゃ、ただ眠ることすら出来そうにない。だから、もう、離れないで」
は微笑んでいるものの、瞳の色は揺らいで見えた。俺の手を握っている手は柔らかく温かく、弱々しいようでとても強い。
頭の中に沢山の言葉が浮かんでくる。“お前に会いたかった”、“そばに居て欲しい”、“一緒に眠りたい”、“好きでたまらない”。陳腐な愛の言葉が浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返す。
「俺も、同じ気持ちだ」
声が震えるのを自覚した。不格好でも情けなくても、これだけは伝えなければいけないと思った。俺は今まで何一つ本当の気持ちを伝えていなかった。いまさら何を言おうというのかとも思うがこれだけは、この思いだけは口にしなくてはならないと強く感じる。
「離れねぇよ、ずっと」
身を乗り出し、の髪に口唇を落とした。それはまるで親が子にするおやすみのキスに似ていて、は安心したのか、それとも最後の力を使い切ったのかは分からないが、あどけない表情で眠りに落ちていた。
ジェファソンの薬の影響は大きい。ここでしばらく眠らせておいたほうが良いだろうと感じ、俺は自分の上着を脱いでの体の上に被せた。
を起こさぬよう慎重にドアを開け車外に出る。なんだか妙に風が強く感じるのは気のせいだろうかと思いつつ、俺はポケットにしまい込んでいたスマートフォンを取り出した。
恐らくジェファソンは、俺を始末した後ターゲットをあの人物へ移すだろう。今までしてきたことへの贖罪だとかそんな甘いことを言うつもりはない。ただもう誰も傷ついて欲しくはなかった。ケイトも、クロエも、マックスも。
「マックス……、俺……、ネイサンだ」
留守番電話にメッセージを残しながら、零れ落ちそうになる涙に抵抗するように夜空を見上げた。真っ暗な視界に、この世にひとつしかないはずの月がふたつ、浮かんでいた。