焼きつく記憶色 - 6

「……すまなかった」

 最後の言葉を口にしてからすぐに電話を切る勇気が俺にはなかった。もっと上手く言えたんじゃないかとか言いそびれている言葉はないのかとか余計な考えが頭に浮かぶばかりで、それを無理矢理断ち切るように通話終了のボタンをタップし電話を切る。

 頬を濡らしていた涙を適当にぬぐいながら車内に戻ると助手席のはまだ眠っているようで、呼吸のために上下している胸以外は微動だにしない。

 俺はエンジンをかけようと腕を伸ばしたが、すぐに思い直し手を引っ込める。今のところジェファソンが追ってくる気配はないし、はこのまま安静にしておいた方が良いだろう。車のエンジン音や揺れなどはなければない方が良い。

 ヘッドライトも車内のライトも消し、俺たちを暗闇が包み込む。空に浮かぶ二つの月が不気味だったが、それよりも今はの方が余程気がかりだ。見ると先ほど被せた俺の上着が少しだけずりおちていて、身を乗り出しの肩まで上着がかかるように被せ直す。

 運転席に座り直しながら、眠り続けるの顔をジッと見つめていると、強く吹く風の音も、空に浮かぶ不気味な二つの月の光も気にならなくなり、なんだかまぶたが重くなってくる。

 俺たち二人は運転席と助手席でほんの少し離れているはずなのに、なんだか同じベッドで寄り添って眠っているような、そんな気分だった。

 ゆっくりと目を閉じ、忍び寄る睡魔に抵抗もせずに考える。目が覚めたらこの後はどうすれば良いのだろう。このまま二人で逃げても良いかもしれないと考えたが、ジェファソンの本当の目的は俺を始末することであっては何の関係もない。

 に死んでほしくなかった。もし俺がジェファソンに殺される結末になったとしても。

 強い風の音が耳に飛び込んできた。うっすらと目を開けると周囲は薄暗いように見えたため、まだ夜明けは訪れていないのかと解釈する。まだぼんやりと歪む視界でフロントガラスを見ると、どうやら強い風だけではなく強い雨がボディを叩いているようだった。

 随分荒れた天気だな、と思ったがその考えはすぐに打ち砕かれる。ふと窓の外に視線をやると“荒れた天気”なんて生易しい状況ではなかった。海の向こう側に巨大な竜巻が見え、それはゆっくりとこちらに向かっているように見える。

 思わず息を飲み、体が固まる。先ほど薄暗いと感じたのはまだ夜明けが来ていなかったせいではなく、あの竜巻のせいで分厚い雨雲が空を覆い隠していたせいだったようだ。

 助手席に座るの肩を揺らし、思わず叫ぶ。

「おい!!いつまで寝てやがる!起きろ!」

 優しい言葉を掛ける余裕もなく、ただを起こそうと必死になった。しかしは軽く唸るばかりで目を覚ます気配はなかったため、俺は舌打ちをすると車のエンジンをかけアクセルを踏んだ。

 見た所あの巨大な竜巻は街に向かっているようだ。少しでもここから離れたほうが良いだろうと考え、車を走らせる。しかしその考えは皆同じのようで、道路はあっという間に避難しようとする車でいっぱいになり、渋滞していく。

「クソッ!」

 どうしたら良いか分からなくなり焦った俺は、ただ汚い言葉を叫びハンドルを殴る。その声と音で目を覚ましたのか、助手席のが身じろぎをし、軽く唸った。

「ネイサン……?」

 は俺の名を呼び、頭を左右に動かしながら周囲の状況を確認しているようだった。強い風でボディが揺れ、雨が窓ガラスを何度も叩いている様子に、すぐにこの状況が異常だと判断出来ただろう。

「うわ、なにこれ……」

 まるで他人事のようには言い、呑気にも笑っていた。もしかしたら自分はまだ眠っていて夢でも見ていると考えているのかもしれない。

 目の前には沢山の車が立ち往生し、ブレーキランプの赤が視界を埋め尽くす。どこからともなく繰り返し聞こえてくるクラクションの音で頭がおかしくなりそうだった。

「いいよ。私を置いてって。どこかに避難しなよ」

 が呟く。思わず顔を見たがの表情は悲しそうなわけでも深刻そうなわけでもなく、ただいつも通りの無表情だった。

 俺は反論しようとしたが、こんな状況になってまで冷静でいるに無性に腹が立ち、ただ彼女を罵倒する言葉ばかりが頭に浮かんできて奥歯を噛みしめる。

「ねぇ、車、動かないんでしょ。降りて安全な屋内に入った方が良いって。私のことは……」

「うるせぇな!黙ってろ!」

 話を続けようとするに怒りが爆発し、車内に響き渡るどころか自分の耳すらおかしくなりそうなほどの声量で叫ぶ。しかしは驚いた様子もなく、ただまっすぐに俺を見つめた。

「だってネイサン、このままじゃ死んじゃうかもよ。私ネイサンに死んでほしくない。だからさっき助けたのに。無意味になっちゃう」

 は、まるでいつも通りの会話をしている時のような様子で言う。慌てることも焦ることもなく、ただ俺を気遣う言葉ばかりを並べ立てる。それが俺は気に障って仕方なかった。

 そうだ。この女はいつだって、どんな感情がこもっているのかも予想できないような目で俺を見つめるんだ。俺のことが好きなくせに、俺が欲しくてたまらないくせに、俺が居ないと生きられないくせに。俺だって同じだ。俺だってこいつが居ないとこの先生きていく自信なんてこれっぽっちもない。



 名を呼びながら腕を伸ばし、の頬に手を添えるとそのまま口唇を塞ぐ。ほんの一瞬触れただけのキスは、今までで一番優しいものに思えた。

「離れるなって先に言ったのはそっちだろ」

 自分の額との額を合わせながら呟く。は何の返答もせず、ただ微かにまぶたを震わせていた。

 俺はすぐさま運転席から車外に出ると、助手席側に回り込みドアを開ける。シートに座ったままのの腕を引いて半ば無理矢理引きずり出すと、肩を貸し腰を支えながら歩き出した。

「ちょっと、ネイサン、どこ行くの」

 弱々しい声でが問いかけたが、それには答えなかった。何処に行こうとしているかなんて自分でも分からなかったため、答えようがなかった。ただ、ここに居てはいけないと思った。ここに留まるか、を置いていくか、そのどちらの選択肢も選ぶことが出来なかった。

 強い風で体が飛ばされそうになるも踏ん張って耐える。冷たい雨が何度も何度も体を叩いたが、寒さを感じなかったのはすぐ隣にが居るせいなんだろう。

 もしかしたら死ぬかもしれない。心のどこかでそんな気がしていたが、の隣で死ねるのならそれも悪くないのかもしれない、などと冗談めいたことをぼんやりと考えた。

 肌に穴が空くのではないかと思うほどの強い雨が降り、気を抜いたら足元をすくわれそうなほどの強い風が吹いている。俺たちは小さな店や住居が立ち並ぶ街に近い場所へと向かったが、風で飛んできたのか建物に突き刺さっている乗用車を見た時に、これは現実なのかと目をこすりたくなった。こんな嵐がアルカディア・ベイを襲うなんて、と思ったが、今思えば前兆らしき現象はいくつかあったような気もしてくる。

 お互いに声をかけようにも雨と風の音で良く聞こえないため、ひとまず相手を気遣いながらひたすらに歩く。しかし目に入る建物はほとんどが倒壊していたり、頑丈そうな建物があっても中は避難者が多く居り入れないような状態だった。このままだと何かしらの障害物が飛んできて危険だろう。長く外には居られない。

「ネイサン、とりあえずどこでもいいから建物に入ろう」

 風の音に負けないようにとが大きめの声で言った。こんなことならあのまま車の中に居ても良かったのかもしれないと一瞬思ったが、先ほど見た建物に突き刺さった車を思い出し頭を振る。

 俺たちはすぐ近くにあった酒屋らしき建物に入った。中には人は居らず、嵐が来る前は綺麗に棚に陳列してあったのであろう酒瓶が床に落ちて割れ、ガラスと中身が散乱していた。

 酒屋の壁には大きな穴が空き雨と風が吹き込んでいたが、奥にあった倉庫は無事だったためひとまずはそこに入ることにした。倉庫にある沢山の棚の上には缶詰や水の入ったペットボトルなどが多く保管されている。

 食料や飲み水があるならばそれなりにここで持ちこたえられるかもしれないと考えるも、すぐにそれが無駄な考えだと気付いた。この酒屋の店舗側の方には壁に大きな穴が空いていたため、おそらくこの倉庫自体もそう長くは持たないだろう。酒屋と倉庫の全てを吹き飛ばす前に、この嵐が治まるとも思えない。

「ネイサン?」

 に名を呼ばれる。俺は倉庫の棚に背をつけずるずると体を引きずるようにしながらそこに座り込んだ。するとは俺を心配したのか、目線を合わせるようにしゃがみ俺の顔を覗き込む。

「どうしたの」

 どうしたのじゃねぇよバカ。そう思うも口には出さない。

 恐らく俺はここで死ぬ。それは別に最早どうでもいいと思っていた。しかしは巻き込むべきではなかった。もしが俺なんかに構わずに居ればジェファソンに襲われることもなかっただろうし、嵐が来る前にどこかに避難出来ていたかもしれない。が今ここに居て、この嵐に襲われ、もうすぐ死んでしまうことになるその原因は俺にある。

「……悪かった」

 ただ小さく、その言葉を呟くことしか出来なかった。は先ほど俺が貸していた上着をずっと肩にかけていたが、それをおもむろに外し俺の肩にかける。その行為の意図が読めず、俺は思わず眉間に皺が寄りの顔を見返した。

「どういう意味?なんで謝るの?」

 は本当に俺の謝罪の意味が分かっていないようで、不思議そうな顔で首を傾げながら俺に問う。

「もうお終いだ、俺たちはもうすぐ死ぬだろ。お前を巻き込んじまって……、すまないと思ってる」

 情けなく声が震えた。もう少し上手い言い方があったんじゃないかとも思ったが、これが今の自分が口に出来る精一杯の言葉だった。

 の反応を見るのが怖くて俯き、自分の足を見つめる。するとが隣に腰を下ろしたのが分かり、伸びてきた手が俺の手を握った。指を絡ませ強く握られた手のひらは少し冷たいのに、ひどくあたたかく感じる。

「もうすぐ死ぬんならさ、あの世で待ち合わせしようよ。きっとまた会えるよ」

 まるでいつも通りの何ともない会話をするかのようには言う。死ぬことが怖くないのか、それとも自分が死ぬということを信じたくないのか分からない。俺は伏せていた頭を上げ隣に居るの顔を見るとフンと鼻で笑った。

「俺がお前と同じ天国に行けると思うのかよ」

 俺はたくさんの人を傷付けた。そしてその気がなかったとはいえレイチェルを死なせた。レイチェルが死んだのは俺のせいだ。そんな他人を傷つけ殺めた自分のような人間が、と同じ場所に召されることはないだろう。

 と俺はきっともうここで永遠の別れになる。は天国へ行き俺は地獄に堕ちる。それでいい。そう思っていたはずなのに、考えれば考えるほど悲しくなる。もっと一緒に居たい。ずっと傍に居たい。いくら思ったところでそれはもう叶わないのに。

 落ちて行く気分とシンクロし、俺は頭を再び伏せた。しかし顎のあたりにの手が伸びてきてそれは阻止される。上を向かせられ至近距離で目が合うと、は俺の額に口唇を落とした。

「なら私がネイサンと一緒に地獄に行く」

 は何の躊躇いもなくそう言うと、目が細くして微笑んだ。のそんな笑顔を見たのは初めてで、胸が押し潰されそうなほどに苦しくなり、呼吸が浅くなる。

「巻き込んで申し訳ないと思ってるんなら、ちゃんと責任取って私を地獄まで連れて行ってよね」

 まるで揚げ足を取る子供のような口ぶりで言うと、は俺の頭を抱えるようにして抱きしめた。微かに、それでいて確かに聞こえるの心音が耳に響いてひどく心地良い。その行為は俺に母親の存在を思い起こさせた。

「私、あなたが居てくれてよかったよ。ネイサンの傍にいられて、幸せだった」

 そう言って微笑むの瞳は見惚れるほどに綺麗で、目に焼き付いて離れなくなる。こんな色がこの世にあるのかと思うほどに美しい色だった。

 “あなたが居てくれてよかった”。それは幼い頃からずっと欲しかった言葉。誰一人その言葉をくれなかった。俺はただ誰かに必要とされたかった。“あなたが居てくれてよかった”と囁かれ、愛されたかった。求めていた言葉も、求めていた愛も、たったいまが俺にくれたんだ。

 身を乗り出し、両手での顔を包み込み引き寄せると、そのまぶたに口唇を落とす。

「俺も、お前が居てくれて良かった、

 そう口にした時、倉庫の壁に穴が空く。強い雨と風が吹き込み、不気味なほどにどす黒い色の空が見えた。倉庫内の棚のいくつかが倒れだし、置いてあった食料が散乱する。



 嵐の音にかき消されないよう、強くの名を呼んだ。建物内に吹き込む雨でお互いの体は再び濡れだし、体温が下がってくるような感覚がする。それを誤魔化すように俺はの背中に手を回し、その体を強く抱きしめた。

「俺、お前が好きだ。きっと、ずっと前から好きだった」

 そう呟くと、俺の腕の中のは一瞬体をかためたかと思うと、すぐにフフ、と微かに笑った。

「知ってるよ、ネイサン」

 はそう言って俺の顔を見上げた。目を合わせるとは片方の口角だけを上げ、まるで悪戯が成功した時の子供かのように笑っており、なんだか悔しい気持ちになる。

 一世一代の告白を馬鹿にしやがって。そう思ったが特に何も言わず、俺は笑っての頬をつねった。まるで鏡合わせかのように笑いあい、ほんの少しだけ涙をこぼす。

 壁に空いた穴から吹き込む雨と風はすぐに強くなり、穴はますます大きくなっていく。倉庫の棚はほとんどが倒れ、俺たちはお互いをかばい合うかのように抱きしめ合い、まるで吸い込まれるようなただ触れるだけの優しいキスをした。

 俺たちが最期に見た光景はきっとお互いの瞳の色。ずっと近くにいたはずなのに気付かなかったその色は記憶に焼き付くほどの美しさで、きっと死んでも忘れることはないだろう。重なり合った口唇は柔らかく温かく、海のような涙のような味がした。